| 「ハルビン日本人女学校」 20世紀アジアの激動を見てきた多民族都市ハルビン。1932年「満州国」が建国され、1934年ハルビン日本人女学校が創立された。しかし、女学校は日本の敗戦とともにわずか13年間の歴史を閉じる。戦後、50年を経て、当時の女教師と女生徒が、今だから語れる様々な戦時体験。 1997年12月8日 今、ハルビンを語る会 |
| 「青酸加里を飲まなかった」私たち一家 川島啓子(若狹啓子) 終戦の頃、私たち一家はシーメンス・ビルの1階に住んでいました。 大直街の満鉄病院のすぐ前にあるドイツ企業の建物で、特殊な管理の仕方がなされ、領事館や商工省の偉い方も住んでいましたが、近所には軍関係の家族の住宅もありました。 8月9日のソ連の参戦の頃でしたか、「当番兵が掃除をしたり、不要品を焼却している」ので、おかしいな、と思っていたら、8月15日の玉音放送でした。 全面降伏です。 すでに軍人とその家族は1人もいませんでした。 軍隊だけは情報が早く伝わり、すでに日本に移動した様子でした。 父はすぐさま職員たちと退職金や給料のために銀行を右往左往、まだこの日は貯金の引き出しができたようです。 無事に日本に帰国できた時のためにと、私と姉(明子)は自分の記名入りの1万円の「小切手」を渡され、それを下着の衿に縫い込みました。これは今でも私の「宝物」で大切にしています。 「ケイコ」と封筒に父が書いてくれて。その日の夕方です。 ソ連兵と白系ロシア人ともつ1人日本語の話せる混血の男の2人が、ビル内の日本人宅に来て「明日の朝9時までにここを出なければ理由を問わず撃ち殺します」と言います。 わが家は、両親(清治・八重)と姉(明子)、私(啓子)と3人の妹(発子、郁子、栄子)。4歳(謙治)と生まれたばかりの弟(良治)の9人家族です。 どうやって短時間に引っ越しなどできましょう。 父がその時、呆然として、隣組を介して配られた青酸加里を「飲んで皆で死のう」と言ったのです。 当時の教育では死んで当然の状況です。 仕方がないかしら、と胸が張り裂けそうでしたが、明子姉が「いやよ―死ぬなんて、私は死なない」と叫んだのです。 その言葉で父は考え直したのでしょう。 それからです、家族全員で必需品をまとめ、父は本社の運搬車の手配をし、一晩中一睡もせずに荷造りをし、運び出す品物のチェックをしました。 私と妹は2人でその時、よく沸いていたのでお風呂にはいりました。「もつたいないから」と。おこられましたが、その辺が子供ですね。 翌朝、表に荷馬車が5台並んでいました。 会社で雑役の仕事をしている王さん兄弟の運搬車です。 かろうじて出発時間に間に合い、9時にはビルの外へ出ました。 当分の間、家族全員で会社の会議室を住まいにすることになりました。 八路軍とともに桂木斯ヘ父は北大の農芸化学の出身で亜麻の会社にいました。 会議室住まいのある時、八路軍の幹部の人が訪ねてきました。 彼は日本留学の経験があり、それで父にぜひ新中国に残って農業の指導をしてほしいと言われ、父もそれを承諾しました。 子供も多かったので帰国は無理だと思ったのでしょう。 そこで私たち一家はハルビンからチャムス(佳木斯)へ後退する人路軍と行動を共にすることになりました。八路軍の黄緑色で綿がもこもこと入った軍服を身に付けて。 父の加わつた一行が植民地時代に建設された工場のひとつひとつを訪ねると「大人(たいじん)が訪れた」と喜んで迎え入れてくれました。 日本人と現地の労働者の間柄がなごやかで信頼を得ていた工場では、日本人が立ち去った後も自主的に操業を行なっていました。 そうでない場合は、放火をされたり、設備をぶち壊されています。 ソ連軍の侵攻で、婦女子が避難列車に乗り込む前に現地の人に拉致された男性職員の消息なども知りました。 ハルビンの市内が混乱に陥っていたとき、自分が最高責任者として裁かれる立場にあることを知っていた父です。 それがかえつて、家族ぐるみでかくまってもらい、命を拾いました。 何が明暗を分けたのでしょうか。 そのほかに、今はもう関係者が亡くなりましたが、行程の間でハルビンに立ち寄ったとき、ハルビン農大の学長であつた方が、立場上、監獄に囚われているのを知りました。 父の同窓であり、「羊に関しての研究では第一人者です。」のことを幹部に訴えて、学長は釈放され、ともにチャムスに移り研究者の一員に加わりました。 父の声が聞き入れられたのは、各工場で迎えてくれた人々の父に対する反応が良かったので、父は信用を得たのだということを私は伝え聞きました。 チャムスヘ旅立つ貨車に乗っていたとき、途中は市民や開拓民よりひと足早く南下していった関東軍の手で線路がはずされていました。 チャムスに住んでいた人たちは南下できなくなり、たくさんあった井戸の中に身を投げて亡くなった人もおり、そのために残留婦人や孤児が発生したといわれています。 チャムスに着いた時も、赤ちやんをおぶって中国人の奥さんになっている日本婦人をたくさん見かけました。 チャムスに着きますと旧北海道帝国大学時代の父の教え子との再会もありました。 その幹部は、1936〜37年(昭11〜12)頃の学生時代は、日本の特高につきまとわれていましたが、そのような時、札幌郊外の手稲山スキー場へ出かけたまま戻りませんでした。 結果は、遭難したということになっていました。 チヤムスでは、往年のその学生に「せんせい」と声をかけられ、予想もしていなかつたことでした。 彼は、スキー場からはルートにない山を日本海側にくだり、着衣を着替えて、ノン・パスポートで入ることのできたハルビンまで戻った後、抗日戦根拠地に潜入したということでした。 大正デモクラシーの時代に青春を生きた父は、軍国少女の私よりも素直に、そして謙虚に、マルクスの資本論と中国革命の理念を、若い指導者について学ぶ時間を得ました。 中国にとどまつて、チャムスには1年もいたでしょうか。 私は最初はチャムスの「東北大自然科学院」の図書館に勤務し、のち財経弁事処農業部の管轄である「農事試験場」で働きました。 はじめは家族のもとから通っていたのですが、そのうち寝起きは図書館のなかで、私ひとりでするようになりました。 身の危険などは一度も感じたことはありませんでした。 ふたたびハルビンヘ 在満日本人の帰国の終了後、またハルビン市に戻りました。 その時、私がよく見かけたのは、中国人の家の前でまだほんとに小さい子がちょぼんと座っている姿です。 「みんな日本人の子だってよ」と言われ、そんなことがあるかしら、と思いました。 ハルビンでの私の職場は前と同じ管轄の「獣医研究所」でした。 チャムスで学んだことを活かそうと仕事は「培養基室」で、私と同年代の中国の青年たちと動物の遺伝やなんかを学び、日本人技術者の指導で日本の資料をもとに仕事をしました。 (両親と妹・弟たちは、蒋介石が台湾に逃れた後、長春の元「大陸科学院」に移動しました)。 「日本人民会」もつくられ、残留日本人のために日本人小学校もできました。 旧哈爾濱鉄道局の副局長の社宅で、広い庭には「コート」もありました。 当時の日本人にとっては、まさか子供たちのために日本人学校が設立されるとは思ってもみなかったことでしょう。 日本人の青年連盟の人たちが先生になって、共産主義教育ばかりではなく、読み書きを教えてくれました。 3学年、教室も4つぐらいあつたように思います。 中共政府指導の生活は、それぞれの職場で国際主義と男女平等の扱いを受け、積極的に行動ができた環境でした。 余暇には「日本人民会」主催の社会活動に参加しました。 忘れもしません、1949年十月1日の新中国誕生の日、中華人民共和国成立の祝賀会が南崗区の「アジア劇場」で行われました。 職場や在住日本人が参加して代表が祝辞を述べました。 私は婦人代表として選ばれて祝辞を読みました。 信じられないことで私は感激しました。 「3月8日の婦女節」にも日本人女性代表として各地の婦人の方と参加しました。 メーデーでは市内の八区公園での大会に参加し、終了後は市内行進をしました。 まさに初体験でした。 また、女子の職場対抗の試合が行われることになり、バスケットボールの試合に、女学校時代私はバスケット部でしたので積極的に参加しました。 学生時代に戻った気持ちでがんばりました。 松花江の川辺にあるグランドや旧・哈爾濱神社の跡地の広場でも試合が行われ、好成績をおさめました。 また、「日本人民会」での日本人同士のバレーボールの試合もあり、私たちの南満チームが優勝して私は代表で民会長より賞状をいただいたこともありました。 こうして帰国までの8年間の20代は、ハルビンでの思い出多い青春時代でした。 あの時期は、新民主主義をかかげた中国の新しい社会の初期で、期待が許された時代であったと思います。 敗戦後のチャムスでのことを父は回想し、かつての教え子から語り教えられた時間がもっとも精神的に充実していたと、95歳で天寿を全うする最晩年には語ってくれました。 (かわしまけいこ・7回生。ボランティアで残留孤児の世話をしている) |
| 拾った命で六十五年 石田 發子(旧姓。 若狹 發子:はつこ) 満州国哈爾浜市 富士十期(自梅女子) 傘寿記念文集「昔、ハルビンにいた」の原稿募集の「時々新聞」を読みました。 昨年は長井光代さんから「はっちやん、書かないの?」と、声がかかりましたが、秋日から持病の一つ、喘息にはじまり、体調不良が重なつたのを目実にして書きませんでした。 私が書くとしたら、敗戦の年から一九五三年春、帰国までのことでしょう。 その歩みは我が胸の内に封印する思いで、老いの今日を迎えました。 長井さんから「喜寿記念文集」を送って頂きました。 目次で選びながら一章ずつ読み継ぎ、一一日がかりで一気に読み終えました。 目元がしょぼしょぼ、文字が読み辛くなりました。 総勢五十人からの応募があったとのこと。 初めて目にする方の名前もたくさんありました。 「遺言集」と、銘打つにふさわしい内容です。 私と同時期に帰ってきた知人、川瀬力さん、本島洋治さんのほか、池田文雄さん、加来和江さん、の記事も加わって素晴らしい編集になりましたね。 ハルビンでの敗戦、私の父は亜麻の栽培と加工工場を満州国内に22か所持っている「満日亜麻紡績」の経営陣(現地責任者 常務取締役)に加わっていました。 1945年8月21、22日頃、ソ連軍がハルビン(哈爾浜)市内にやつてきました。 関東軍はすでに撤退し、隣組を通じて青酸カリを民間人に配っていきました。 我が家は両親(清治、八重)と20歳を頭に五人の娘(明子、啓子、発子、郁子、栄子)、4歳の長男(謙治)と1歳の次男(良治)、の9人家族でした。 市内の一等地の一角にあった住まいはソ連軍司令部宿舎に接収されることになりました。 住む家はなくなり、女子供の大家族。 父は青酸カリを家族で飲もうと決めました。 翌未明に事態を知った元・中国人社員たちが駆けつけてきて、救出、私達を匿ってくれました。 会社は数日前に中国人社員に委譲しています。 こうして私達は命を拾いました。 関東軍と中国人、人の道の在り方を問われるような違いを覚えます。 その拾った命は、戦後の大陸で、国内戦、新中国成立、建国の初期を体験し、今の私が存在しているのです。| ジャムスヘ移る 私は敗戦の翌年に家族と共にハルビンからジヤムスヘ移りました。 ジャムスでは東北大学に集められた、多方面にわたる留用者との出会いがありました。 市街地には雨露を凌げる建物は少なく、旧市街の馬宿を宿舎にして冬を過ごしました。 川瀬力さん一家もご一緒でした。爆破し損ねた煉瓦建物には亀裂が入っています。 冬には粉雪が吹き込み、寒さは極限でした。 どん底の暮らしでしたが、肩を寄せて、助け合った暮らしは今では温かい思い出になっています。 父はジャムスでかっての北海道大学の教え子、中国人の留学生と出会いました。 彼は植民地時代は抗日拠点地で活動し、八路軍の幹部になっていました。 留用の任務である、各地の工場調査に出掛けるときは、その幹部と共に馬にまたがって移動し、夜は農家のオンドルの片隅で寝袋にもぐって泊めてもらいます。 後にその幹部は1954年10月、中国紅十学会会長・李徳全女史、外交部・趙安博氏らの一行と共に来日して、札幌市で父と再会する縁がありました。 話は戻って一九四六年冬、ジャムスで私は人民大学の医務室に看護婦として勤務し自活の一歩を踏み出すことになりました。 医務室には、延安から北上した男性の医師、女性の薬剤師、本曖湖鉱山病院から同行させられたイガ外科医師、マカベ看護婦長、梅木看護婦、ハルビンからの日本人男性医師の方々がいらっしやいました。 午前中は診察、午後は往診、小さな手術などをしました。 夜にはイガ先生から梅木さんと2人で看護学の個人教育を受けました。 人民大学は元・赤十字病院跡です。 壊れた箇所をみんなで修復して校舎、宿舎にして、学生でいっぱいでした。 中国の大学生はみんな革命の一翼の担い手です。 解放区の土地(農地)改革の指導者としての教育を受けていました。 1047年春、学生たちは荷馬車に分乗して、任地に向かって賑やかに旅立っていきました。 医務室の人たちは、八路軍(民主連軍)に編入されます。 私も大好きな人々と行動を共にしたいと願いました。 イガ医師から「今日まで家族が離散しなかったのは希有のことだ。 お父さんと行動しなさい」と諭されて、父たちと行動を共にすることになりました。 再びハルビンヘ1947年初夏、ハルビンに戻ることになりました。 一年前はハルビンからジヤムスヘ移動するのに貨車に揺られ一週間かかりました。 級化へ北上、慶安から東に向かって着いたのはジャムスを遥か対岸に望む処でした。松花江の鉄橋は関東軍が破壊しながら撤退した跡しか残っていません。 小舟で二日がかりで、人と荷物を渡し終えました。ジャムス市内に入ると、日本人女性が赤ちゃんを背負って中国人の妻になっている姿をよく見かけました。 一年ぶりにハルビンに戻るには、朝ジャムスを出発、牡丹江経由で日暮れにはハルビンに到着します。復興の速いのには驚きです。 これは、ハルビンに大勢留められた旧満鉄の技術者の仕事であったと後で知りました。 その家族の中には同期の田中多加実(牛島)さんもいて後に再会しました。 沢山の同胞が残っていて本当に驚きました。 ハルビンに着いた翌朝、自梅から仲良しだつた土井智子さんが宿舎を訪ねてきました。どこから情報が入ったのか驚きでした。嬉しかつたです。 ハルビンでの暮らしは、市街地からは遠く離れていました。 また1948年初冬にはハルビンを離れました。 そんなことでハルビンっ子で私を知らない人が多いのです。 それが今泉仁三さんお兄さんが覚えて下さつていました。 「綿入れの冬服、毛皮の防寒帽子の女の子がいてね、こんな子もいるんだと思つたね」とは40年後の再会の時の言葉でした。 廃墟の長春ヘ一九四九年一月、吉林、沈陽を経て廃墟の長春へ配属になり、そこで長春観象台にいて、残された石井さんとご家族たちに合流しました。 配属されたのは、長春市・南嶺に建つ旧大陸科学院跡です。 「自然科学院・長春科学研究所」と改称されます。 石井千尋氏は物理学研究室主任です。 日本では東大で仁科研究室にいました。 原子爆弾の研究計画に反論して宇宙線研究のテーマを持って満洲に渡られたとおっしやっていました。 原子爆弾について訊ねましたら「原子力の開発目的は電力です。 その途中段階でつくり出せるのです」と教えてくださいました。 私の父は有機化学研究室主任。 私はハルビン以来、父と共に行動した研究室助手です。 研究室の責任者に日本人が配置されたのは珍しかつたそうです。 ここで省略は許されない歴史があります。 国府軍と解放軍の内戦で民衆を底知れぬ窮乏迫害、多数の犠牲者を出した都市戦場の傷跡は惨いものでした。」曖藤誉著の「十子、チャーズ」副渡千代、浜朝子著「満洲・チャーズの悲劇」の二冊に詳細が書かれています。) 著作には脱出をして生き延びられた方々のお名前、無念の死を遂げられたお名前が並んでいます。 国府軍に残されて、内戦の果てに脱出して再び長春に戻られた方。私の父のように人路軍に強制留用になった人々との合流です。 春がきて凍てついた地面が柔らかくなってきました。 内戦中に思想犯として国府軍に処刑されて、市内各地に埋められた人々を探し、掘り出す作業もありました。 自分の友人を見つけて嘆く姿も見ました。 国・共ともに同胞同士で闘い合った結果です。 日本の大平洋戦争の結末で人間の惨めさ、愚かさを学び、続いての新中国誕生での「革命」「戦争」の現実を私の心には受け入れられません。 このような日々の合い間に研究所の日本人集団は、研究機関系列の地質調査所の研究者とも合同で、家族ぐるみで新政権の前途を学習し、また文化的欲求を満たすために月刊誌を発行することにしました。 インテリ集団だったので内容はエツセイ、文学、論文、作詩など様々でした。 表紙の絵は交代で描きました。 誌名は「進み行く南嶺」です。 女学校の国語教師だった夫人もいて、私は随分と教えられました。 月刊誌は手書きで一冊だけですから、回覧読みです。 休日には、その批評会もやりました。 私には同年輩はいないので、自分の心の世界に浸って過ごしました。 1949年10月1日、中華人民共和国成立。 基礎建設三カ年計画を打ち出し人材の養成を目玉としました。 研究所は高卒以上の学歴が求められます。 内戦で大学未卒業生は研究所に籍を置いて、大学に戻りました。 費用は全部国費です。 私は高校中退が主な地質調査所技術員養成課程へ配転になりました。 日本人は私一人です。 寄宿舎生活で寝食を共にし、全てが国費で支給されました。 当時、中国の高校進学者の学力は高くて、私のように農作業で明け暮れた日本人女学生では対等に学べません。 主な教科は山岳測量と地形・地質の作図です。 中国語の授業を聴き取る語学力も足りません。 父やほかの研究者の個人指導を受けて、追いかけました。 霧の中の様な状態も、一二か月も経つと晴れて来ました。 今になって若かったからだと思います。 夜は資料室にこもってノートをつくり努力を重ねました。 私は仲間の中では一番目に作図の仕事を与えられました。 日本人のプライドを果せたと思います。 教官の一人は日本語が話せるのに、私に日本語を語りませんでしたが、自分の講義で、私がノートをとったのを丁寧に添削してくれました。 「特別扱いだ」と他の受講生たちが批判しましました。 教官は「彼女のノートを学べ」と反論したので、皆で寄ってきて私のノートを見ました。 教官には日本人に対する微妙な配慮があった一例です。 三年間の課程では試験にパスして修了します。 この日を迎える間に朝鮮戦争が始まりました。私は中国国内で説明されていた通りに、アメリカ支援で韓国から攻めて来たと信じていました。 長春市は発電ダム湖の被爆で電力不足になりました。 ソ連は第二次大戦後の復興に追われています。 中国国内では山海関の南北で通貨の統一も未だの時代です。 解放軍の支援は志願兵とい,p形で参加しました。 北朝鮮の遊撃隊(パルチザン)の負傷兵が国境を超えて大勢運ばれてきました。 中国志願兵の負傷者も次々に長春市に戻ってきました。 重傷者は沈陽市、軽傷者は長春市ですが、周辺で見かける傷病兵は一様に顔がケロイドです。 アメリカには原爆投下の案もあつたと聞きましたが、山岳地帯の洞窟に構える北の兵士には火炎放射器が有効だったと話されていました。 この時期、私の所属する地質調査所は沈陽の工業地帯を疎開させるための候補地の測量に参加しました。 ソ連、モンゴルに近い海拉爾、富拉爾基一帯です。 緩やかな丘陵地帯で、かっての「ノモンハン戦場」に近く、1945年8月9日、ソ連が侵攻したルートの一つです。 深くて幅広い対戦車壕が平板測量に記されました。 地質ボーリングで土壌の採取も行い、長春科学研究所で分析します。 以前、化学分析の仕事をしていた私に応援を求められて加わりました。 突貫作業でした。 地質調査所では作図作業に追われながら、一方では朝鮮領事館から頼まれて戦略用の海洋図の写し作業に大忙しでした。これらは当時の機密事項でした。 半世紀をへて私が開封するのはもう許されるでしょう。 1952年末には、第一次5カ年計画に移行します。 技術員養成のグループは、男性は側量隊、女性は絵図室(作図)にと分けられました。 男性でも、山岳での行動が無理な人は、絵図室に編成です。 各グループは数人ずつを残し、他は山海関を超えて各地に配属です。 最南端は湖南省まで赴任しました。 私もはじめは、北京煤鉱(石炭)局に内示が出ましたが、単独日本人の移動は面倒で保留になります。それまでは出張の際は、「もぐり」の中国人でした。 長春に残った人は、私も含めて後輩を養成する任務を予定されていました。 1953年以降、地質学校設立の準備に入ります。 1953年春、帰国の機会が訪れました。私のノートを添削してくれた教官が「国家が貴女を育てたんだ。残って貢献しなさい」と一度だけ言いました。 上部は私を呼んで「日本での落ち着き場所はあるのか?街は爆撃の被害はないのか?」と案じてくれました。 当初は数十人から出発した地質調査所も、別れる時は千人を越す規模になっていました。私の歓送集会には講堂から人が溢れていました。 壇上で挨拶する私を見て「ぁの女性は日本人だったの」と驚いた人もいたようです。 中国紅十字会と日本の民主3団体との民間交流・交渉の成果です。 それ迄の国交のない地では母国の大使館もありません。私は精一杯、気張って生きてきました。 中国の民衆の善意と、周恩来首相の留用日本人対策で、折々に声明を発するのに救われていました。 私の両親はそれまでも帰国の噂が流れても、意に介しませんでした。 それが、この時は「万難を排しても帰ろう」と言いました。常々「必ず帰れる日が来る」と語っていた日が来ました。 年荷輩ど醜聟げ鷲“体験もありました。秦皇島から迎えの興安丸に乗船しました。 茶色の大陸の山野を眺め、20年後、30年後の中国の成長を期待して別れを告げました。 4月15日舞鶴上陸、定住地に着いて一週間で職を得て「中共帰り」と言われながら自活の道を歩み、32歳で夫になる人と出会い、今に至っています。 ◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆ 残留孤児との対面、そして北京ヘ1972、日中国交回復。 七五年、文化大革命ほぼ集結。 一九人一年に、中国残留日本人孤児の訪日調査が始まりました。 テレビの前で泣いている私に「家事はいいから、後悔しないように会いに行きなさい」と連れ合いが言ってくれました。 その頃は病後で遠出は控えていましたが、頑張って代々木青少年センターに出掛けました。 控え室に入って「初次見面。はじめまして」と一人に声をかけますと「貴女のような人に会いたかった!待っていた!」と言って手を握って喜んでくれました。 その日から帰国者との繋がりが続いています。東京各地の知り合いも出来ました。 80年代に横浜での連絡会が帰国者自立センターを設立するときに「手伝わないか」と声をかけて下さいました。 「ハイー」と即答して出掛けるようになりました。時を経て今は自立センターも辞して「帰国者と交流する会」のメンバ―の一人になりました。 30年近くもこ の分野に関わって、少しは日本政府に代わって孤児に対する贖罪になったでしようか。 ジヤムス、ハルビン時代は中国人に拾われた幼い日本人の姿を眼にしました。 長春に移ってからは見分けはつきません。 新中国で成長し社会人になることを祈っていました。 中国から帰国する頃は、文盲対策で三人寄れば識字班と称して、街頭で職場で文字を学習する姿がありました。 難しい漢字はどんどん略字化が進みます。連環漫画も様々に出て、歴史、物語り、政治などの知識を広めていました。 30年を経て普及教育が進んでいる筈です。 ところが、出会った人々に文字を知らない人がいます。 昔、長春の研究所で私がしていたのと同じ仕事をしていた二世は中学卒です。 私が日本へ帰ってからの中国が経済大躍進政策に挫折、国家主席の退陣。 続く権力闘争への十年余。 その間は、政府組織の解体、人材育成をも放棄した結果を目の当りにします。日本人孤児を始め、日本に縁のあった人々の排除された苦難を知ります。 私も敗戦時には日本政府に棄てられた一人です。 それでも、年月を経て日本社会に馴染んできました。改めて孤児の皆さんと接して、私にも罪があると思いました。 私たちが帰国出来るのに、孤児だった人達も連れてとは思いませんでした)孤児対策は日本政府の怠慢と批判されます。 それは私にも一端の責任を覚えます。 1992年9月から翌年2月まで半年コースの「短期語学留学」で、北京語言学院へ趣きました。 中国からの帰国者との関わりも年々難しさを覚えてきた頃です。 現代の中国をこの日で確かめようと一大決心をしたわけです。 横浜の自立センター講師、厚生省委任の自立指導員、通訳などを一年間休んで出掛けました。 出掛ける前、大陸から来日している人との交流も多く、たくさんの資料があり、一通りの知識は持っている積りでしたが、それでもいま一つ判らないところがありました。華僑の和田先生からは「立ち上がれなくなるよ、訪ねない方がいいよ」と助言をいただきました。 あれや、これや、思いまどいつ、家族の協力を受けて決行しました。 その結果、私の青春時代を捧げた中国革命の理想と、60歳を迎えて日の当たりした現代中国の違いに、自分の人生を否定されたように思いました。 私が中国から帰国して「中共帰り」と言われても胸を張って生きられました。 それは、中国の革命戦士たちの素朴で真摯な生き方に多くを学んだ誇りがあつたからです。「為人民服務」、見返りを求めない。誠実に生きること。 39年ぶりの中国です。 北京空港に着いて、第一日目から別人種か?と思う程に人々の心根が変わっています。 新政権は老後の保障、医療制度の格差なしを目標に発足したのですが、それが崩れています。 底辺の底上げから出発した国づくりの思想は消えています。 あの時代の苦労は無意味だつたのか? 動乱続きの中国の二十年に衝撃を受けました。 北京で趙安博氏に会うことができました。 私のことをよく覚えていて下さいました。 ハルビンで在留日本人対応の仕事の主力だった趙氏は日本留学の経験もあり日本語のよくできる方です。 趙氏は文化大革命の時には自殺未遂をしています。 日本と少しでも繋がりのあった人物は一様に追害を受けたのです。 しかしこの頃は名誉回復されています。 1984年時は中国、中日関係史研究会副会長になっています。 1992年にお会いしたときは79歳。 5年前に脳血栓を患い、入院治療のあと、国務院一部長級宿舎にお住まいでした。 残念ながら1999年逝去されました。 古い仲間から私は「鉄の心の女」と言われましたが、自分では「不器用な人間」「忍」の歩みと思っています。 (横浜市〉 |