若狹家の戦後直後、引揚げまでの歴史

「ハルビン日本人女学校」
20世紀アジアの激動を見てきた多民族都市ハルビン。1932年「満州国」が建国され、1934年ハルビン日本人女学校が創立された。しかし、女学校は日本の敗戦とともにわずか13年間の歴史を閉じる。戦後、50年を経て、当時の女教師と女生徒が、今だから語れる様々な戦時体験。

                                  1997年12月8日
                                  今、ハルビンを語る会
「青酸加里を飲まなかった」私たち一家 川島啓子(若狹啓子)
 
終戦の頃、私たち一家はシーメンス・ビルの1階に住んでいました。
大直街の満鉄病院のすぐ前にあるドイツ企業の建物で、特殊な管理の仕方がなされ、領事館や商工省の偉い方も住んでいましたが、近所には軍関係の家族の住宅もありました。
8月9日のソ連の参戦の頃でしたか、「当番兵が掃除をしたり、不要品を焼却している」ので、おかしいな、と思っていたら、8月15日の玉音放送でした。
全面降伏です。
すでに軍人とその家族は1人もいませんでした。
軍隊だけは情報が早く伝わり、すでに日本に移動した様子でした。
父はすぐさま職員たちと退職金や給料のために銀行を右往左往、まだこの日は貯金の引き出しができたようです。
無事に日本に帰国できた時のためにと、私と姉(明子)は自分の記名入りの1万円の「小切手」を渡され、それを下着の衿に縫い込みました。これは今でも私の「宝物」で大切にしています。
「ケイコ」と封筒に父が書いてくれて。その日の夕方です。
ソ連兵と白系ロシア人ともつ1人日本語の話せる混血の男の2人が、ビル内の日本人宅に来て「明日の朝9時までにここを出なければ理由を問わず撃ち殺します」と言います。
わが家は、両親(清治・八重)と姉(明子)、私(啓子)と3人の妹(発子、郁子、栄子)。4歳(謙治)と生まれたばかりの弟(良治)の9人家族です。
どうやって短時間に引っ越しなどできましょう。
父がその時、呆然として、隣組を介して配られた青酸加里を「飲んで皆で死のう」と言ったのです。
当時の教育では死んで当然の状況です。
仕方がないかしら、と胸が張り裂けそうでしたが、明子姉が「いやよ―死ぬなんて、私は死なない」と叫んだのです。
その言葉で父は考え直したのでしょう。
それからです、家族全員で必需品をまとめ、父は本社の運搬車の手配をし、一晩中一睡もせずに荷造りをし、運び出す品物のチェックをしました。
私と妹は2人でその時、よく沸いていたのでお風呂にはいりました。「もつたいないから」と。おこられましたが、その辺が子供ですね。
翌朝、表に荷馬車が5台並んでいました。
会社で雑役の仕事をしている王さん兄弟の運搬車です。
かろうじて出発時間に間に合い、9時にはビルの外へ出ました。
当分の間、家族全員で会社の会議室を住まいにすることになりました。
八路軍とともに桂木斯ヘ父は北大の農芸化学の出身で亜麻の会社にいました。
会議室住まいのある時、八路軍の幹部の人が訪ねてきました。
彼は日本留学の経験があり、それで父にぜひ新中国に残って農業の指導をしてほしいと言われ、父もそれを承諾しました。
子供も多かったので帰国は無理だと思ったのでしょう。
そこで私たち一家はハルビンからチャムス(佳木斯)へ後退する人路軍と行動を共にすることになりました。八路軍の黄緑色で綿がもこもこと入った軍服を身に付けて。
父の加わつた一行が植民地時代に建設された工場のひとつひとつを訪ねると「大人(たいじん)が訪れた」と喜んで迎え入れてくれました。
日本人と現地の労働者の間柄がなごやかで信頼を得ていた工場では、日本人が立ち去った後も自主的に操業を行なっていました。
そうでない場合は、放火をされたり、設備をぶち壊されています。
ソ連軍の侵攻で、婦女子が避難列車に乗り込む前に現地の人に拉致された男性職員の消息なども知りました。
ハルビンの市内が混乱に陥っていたとき、自分が最高責任者として裁かれる立場にあることを知っていた父です。
それがかえつて、家族ぐるみでかくまってもらい、命を拾いました。
何が明暗を分けたのでしょうか。
そのほかに、今はもう関係者が亡くなりましたが、行程の間でハルビンに立ち寄ったとき、ハルビン農大の学長であつた方が、立場上、監獄に囚われているのを知りました。
父の同窓であり、「羊に関しての研究では第一人者です。」のことを幹部に訴えて、学長は釈放され、ともにチャムスに移り研究者の一員に加わりました。
父の声が聞き入れられたのは、各工場で迎えてくれた人々の父に対する反応が良かったので、父は信用を得たのだということを私は伝え聞きました。
チャムスヘ旅立つ貨車に乗っていたとき、途中は市民や開拓民よりひと足早く南下していった関東軍の手で線路がはずされていました。
チャムスに住んでいた人たちは南下できなくなり、たくさんあった井戸の中に身を投げて亡くなった人もおり、そのために残留婦人や孤児が発生したといわれています。
チャムスに着いた時も、赤ちやんをおぶって中国人の奥さんになっている日本婦人をたくさん見かけました。
チャムスに着きますと旧北海道帝国大学時代の父の教え子との再会もありました。
その幹部は、1936〜37年(昭11〜12)頃の学生時代は、日本の特高につきまとわれていましたが、そのような時、札幌郊外の手稲山スキー場へ出かけたまま戻りませんでした。
結果は、遭難したということになっていました。
チヤムスでは、往年のその学生に「せんせい」と声をかけられ、予想もしていなかつたことでした。
彼は、スキー場からはルートにない山を日本海側にくだり、着衣を着替えて、ノン・パスポートで入ることのできたハルビンまで戻った後、抗日戦根拠地に潜入したということでした。
大正デモクラシーの時代に青春を生きた父は、軍国少女の私よりも素直に、そして謙虚に、マルクスの資本論と中国革命の理念を、若い指導者について学ぶ時間を得ました。
中国にとどまつて、チャムスには1年もいたでしょうか。
私は最初はチャムスの「東北大自然科学院」の図書館に勤務し、のち財経弁事処農業部の管轄である「農事試験場」で働きました。
はじめは家族のもとから通っていたのですが、そのうち寝起きは図書館のなかで、私ひとりでするようになりました。
身の危険などは一度も感じたことはありませんでした。
 
ふたたびハルビンヘ
在満日本人の帰国の終了後、またハルビン市に戻りました。
その時、私がよく見かけたのは、中国人の家の前でまだほんとに小さい子がちょぼんと座っている姿です。
「みんな日本人の子だってよ」と言われ、そんなことがあるかしら、と思いました。
ハルビンでの私の職場は前と同じ管轄の「獣医研究所」でした。
チャムスで学んだことを活かそうと仕事は「培養基室」で、私と同年代の中国の青年たちと動物の遺伝やなんかを学び、日本人技術者の指導で日本の資料をもとに仕事をしました。
(両親と妹・弟たちは、蒋介石が台湾に逃れた後、長春の元「大陸科学院」に移動しました)。
「日本人民会」もつくられ、残留日本人のために日本人小学校もできました。
旧哈爾濱鉄道局の副局長の社宅で、広い庭には「コート」もありました。
当時の日本人にとっては、まさか子供たちのために日本人学校が設立されるとは思ってもみなかったことでしょう。
日本人の青年連盟の人たちが先生になって、共産主義教育ばかりではなく、読み書きを教えてくれました。
3学年、教室も4つぐらいあつたように思います。
中共政府指導の生活は、それぞれの職場で国際主義と男女平等の扱いを受け、積極的に行動ができた環境でした。
余暇には「日本人民会」主催の社会活動に参加しました。
忘れもしません、1949年十月1日の新中国誕生の日、中華人民共和国成立の祝賀会が南崗区の「アジア劇場」で行われました。
職場や在住日本人が参加して代表が祝辞を述べました。
私は婦人代表として選ばれて祝辞を読みました。
信じられないことで私は感激しました。
「3月8日の婦女節」にも日本人女性代表として各地の婦人の方と参加しました。
メーデーでは市内の八区公園での大会に参加し、終了後は市内行進をしました。
まさに初体験でした。
また、女子の職場対抗の試合が行われることになり、バスケットボールの試合に、女学校時代私はバスケット部でしたので積極的に参加しました。
学生時代に戻った気持ちでがんばりました。
松花江の川辺にあるグランドや旧・哈爾濱神社の跡地の広場でも試合が行われ、好成績をおさめました。
また、「日本人民会」での日本人同士のバレーボールの試合もあり、私たちの南満チームが優勝して私は代表で民会長より賞状をいただいたこともありました。
こうして帰国までの8年間の20代は、ハルビンでの思い出多い青春時代でした。
あの時期は、新民主主義をかかげた中国の新しい社会の初期で、期待が許された時代であったと思います。
敗戦後のチャムスでのことを父は回想し、かつての教え子から語り教えられた時間がもっとも精神的に充実していたと、95歳で天寿を全うする最晩年には語ってくれました。
(かわしまけいこ・7回生。ボランティアで残留孤児の世話をしている)