「さくら隊散る」の上映会

2025年8月9日(土) 埼玉会館で映画「さくら隊散る」の上映会がありました。会場では、ノーべル乎和賞授賞式日本被団協田中熙巳(てるみ)さん【演説会文】が配布されました。

概要
昭和20年8月6日、広島で原爆のため命を落とした移動演劇隊”櫻隊”の9人の演劇人の足跡を再現ドラマとゆかりの人々の証言で描くドキュメンタリー。江津萩枝のルポルタージュを「原爆の子」「第五福竜丸」の新藤兼人監督が映画化。櫻隊の前身は昭和17年に誕生した苦楽座で、20年に櫻隊と改名し、演劇活動を続けていた。

https://x.gd/fbzVa 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 

田中 煕巳(たなか てるみ) 2024年ノーベル平和賞記者会見にて(オスロ)
生誕:1932年4月29日(93歳)  満洲国
国籍: 日本
教育:東京理科大学東北大学博士(工学)、1993年)
職業:教育者、核廃絶運動家
受賞:ノーベル平和賞(2024年)
田中 煕巳(たなか てるみ、1932年4月29日 – )は、日本の材料工学者核廃絶運動家長崎原爆被爆者日本原水爆被害者団体協議会代表委員。元東北大学工学部助教授十文字学園女子短期大学教授博士(工学)(東北大学、1993年)。専門は材料工学。
長年、被爆者運動の中核を担っており、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の事務局長を計20年務め、その後も同団体の代表委員として活動。 2024年10月11日、代表委員として所属する日本原水爆被害者団体協議会ノーベル平和賞を受賞。

核語られる時代「悲しい」 被団協に平和賞 田中熙巳さん記者会見

ノーべル乎和賞授賞式日本被団協田中熙巳さん【演説会文】
代表委員田中黒巳さんの演説全文


 国王主ならびに王妃両陛下、皇太子・皇太子妃両殿下、ノルウェー・ノーベル委員会のみなさん、
ご列席のみなさん、核兵器廃絶をめざしてたたかう世界の友人のみなさん、
 ただいま紹介いただきました日本被国協の代表委員の一人であります、田中熙巳(たなか てるみ)でございます。
 本日は受賞者「日本被団協Jを代表してごあいさつをする機会を頂きありがとうございます。
 私たちは1956年8月に「原水爆被害者団体協議会J (日本被団協〉を結成しました。

 生きながらえた原爆被害者は歴史上未曽有の非人道的な被害をふたたび繰り返すことのないようにと、
 二つの基本要求を掲げて運動を展開してまいりました。
 一つは、日本政府の「戦争の被害は国民が受忍しなければならない」との主張に抗い、原爆被害は戦争を開始し遂行した国によって償われなければならないという私たちの運動であります。
 二つは、核兵器は極めて非人道的な殺りく兵器であり人類とは共存させてはならない、すみやかに廃絶しなければならない、という運動であります。
 この運動は「核のタブー」の形成に大きな役割を果したことは間違いないでしょう。

 しかし、今日、依然として12000発の核弾頭が地球上に存在し、4000発近くの核弾頭が即座に発射司能に配備がされているなかで、ウクライナ戦争における核超大国のロシアによる核の威嚇、また、パレスチナ自治区ガザ地区に対しイスラエルが執拗に攻撃を加える中で核兵器の使用を口にする閣僚が現れるなど、市民の犠牲に加えて「核のタブー」が壊されようとしていることに限りない悔しさと憤りを覚えます。
私は長崎原爆の被爆者の一人であります。
 13歳の時に爆心地から東に3キロ余り離れた自宅において被爆しました。
 1945年8 月9 日、爆撃機1 機の爆音が突然聞こえるとまもなく、真っ白な光で体が包まれました。
 その光に驚樗し2階から階下にかけおりました。
 目と耳をふさいで伏せた直後に強烈な衝撃波が通り抜けて行きました。
 その後の記憶はなく、気がついだ時には大きなガラス戸が私の体の上に覆いかぶさっていました。
 しかし、ガラスが一枚も割れていなかったのはこれは私の奇跡というほかありません。
 ほぼ無傷で聞かりました。
 長崎原爆の惨状をつぶさに見たのは3日後、爆心地帯に住んでいた二人の伯母の安否を尋ねるために訪れた時です。

 わたしと母は小高い山を迂回し、峠に辿り着き、眼下を見下ろして愕然としました。
 3キロ余り先の港まで、黒く焼き尽くされた廃嘘が広がっていました。
 煉瓦造りの東洋ーを誇った大きな教会・浦上天主堂は崩れ落ち、みるかげもありませんでした。
 麓に降りていく道筋の家はすべて焼け落ち、その周りに遺体が放置され、あるいは大けがや大やけどを負いながらなお生きている人々が、誰からの救援もなく放置されておりました。
 私はほとんど無感動となり、人間らしい心も閉ざし、ただひたすら目的地に向かうだけでありました。
 一人の伯母は爆心地から400mの自宅の焼け跡に大学生の孫とともに黒焦げの死体で転がっていました。
 もう一人の伯母の家は倒壊し、木材の山になっていました。

 祖父は全身大やけどで瀕死の状態でしゃがみこんでいました。
 伯母は大やけどを負い私たちの着く直前に亡くなっていて、私たちの手で野原で奈毘にふしました。
 ほとんど無傷だった伯父は救援を求めてその揚を離れていましたが、救援先で倒れ、高熱で1週間ほどで苦しみ亡くなっだそうです。
 一発の原子爆弾は私の身内5人を無残な姿に変え一挙に命を奪いました。

 その時目にした人々の死にざまは、人間の死とはとても言えないありさまでした。
 誰からの手当ても受けることなく苦しんでいる人々が何十人何百人といました。
 たとえ戦争といえどもこんな殺し方、こんな傷つけ方をしてはいけないと、私はそのとき、強く感じたものであります。
 長崎原爆は上空600メートルで爆発し、放出したエネルギーの50%は衝撃波として家屋を押しつぶし、35%は熱線として屋外の人々に大やけどを負わせ、倒壊した家屋のいたるところに火をつけました。

 多くの人が家屋に押しつぶされたまま焼き殺されました。
 残りの15%は中性子線やγ線などの政射線として人体を貫き内部から破壊し、死に至らせ、まだ原爆症の原因を作りました。
 その年の末まで広島、長崎の死亡者の数は、広島14万人前後、長崎7万人前後とされています。

 原爆を被曝しけがを負い、放射線に被ばくし生存していた人は40万人あまりといえます。
 生き残った被爆者たちは被爆後7年間、占領軍に沈黙を強いられました。

 さらに日本政府からも見放されました。
 被爆後の十年間、孤独と、痛苦と生活苦、偏見と差別に耐え続けざるをえませんでした。
 1954年3月1日のビキニ環礁でのアメリ力の水爆実験によって、日本の漁船が「死の灰」を被ばく、大きな事件になりました。

 中でも第五福竜丸の乗組員23人が全員被ばくし、急性放射能症を発症し、捕獲したマグロはすべて投棄されることになりました。
 この事件が契機となって、原水爆実験禁止、原水爆反対運動が日本に始まりました。
 世界でも始まりました。

 燦原の火のように日本中に広がったのです。
 3000万を超える署名が結実し、1955年8月「原水爆禁止世界大会」が広島で開かれ、翌年の1956年、第2回世界大会が長崎で関かれました。
 この運動に励まされて、大会に参加した原爆被害者によって1956年8月10日「日本原水爆被害者団体協議会」が結成されたのであります。
 結成宣言で「自らを救うとともに、私たちの体験を通して人類の危機を救おう」との決意を表明したのであります。
  「核兵器の廃絶と原爆被害に苅する国の補償」を求めて運動に立ち上がったのであります。
 運動の結果、1957年に「原子爆弾被爆者の医療に関する法律」が制定されます。
 しかし、その内容は、「被爆者健康手帳Jを交信し、無料で健康診断を実施するという簡単なものでありました。
 さらにちうひとつ、厚生大臣が原爆症と認定した疾病にかかった場合のみ、その医療費を支給するというものでありました。

 1968年になり、「原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律」というのを制定させました。
 これは、数種類の手当てを給付するということで経済的な援助を行いました。
 しかしそれは社会保障制度でありまして、国家補償はかたくなに拒まれたのであります。
 1985年、日本被団協は「原爆被害者調査」を実施しました。

 この調査で、原曝被害はいのち、からだ、こころ、くらしにわたるすべての被害を加えるというちのであ
りました。

 命を奪われ、身体にも心にも傷を負しし痛気があることや偏見から働くこともままならない実態が明らかになりました。
 この調査結果は、原爆被害者の基本要求を強く裏付けるものとなりました。
 自分たちが体験した悲惨な苦しみを二度と、世界中の誰にち味わわせてはならないとの思いを強くいたしました。
 1994年12月、この2つの法律を合体した「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」が制定されました。

 しかし、何十万人という死者に対する補償はまったくなく、日本政府は一貫して国家補償を拒み、放射線被害に限定した対策のみを今日まで続けております。
 もう一度繰り返します、原爆で亡くなった死者に対する償いは、日本政府はまったくしていないという事実をお知りいただきたいというふうに思います。
 これらの法律は、長い間、国籍に関わらず海外在住の原爆被爆者に対し、適用されていませんでしたが、
日本で被爆し、母国に帰った韓国の被爆者や、戦後アメリ力、ブラジル、メキシコ、力ナダ、このほかに移住した多くの被爆者は、被爆者特有の病気を抱えながら原爆被害への無理解に苦しみ、それぞれの国で結成された原爆被害者の会と私たちは連帯し、ある時は共同し、裁判など活動を通して国に訴え、国内とほぼ同様の援護が行われるようになってまいりました。
 私たちは、核兵器のすみやかな廃絶を求めて、自国政府や核兵器保有国ほか諸国に要請運動を強めてまいりました。
 1977年国連NGOの主催で「被爆の実相と被爆者の実情」に関する国際シンポジウムが日本で開催されました。

 原爆が人間に与える被害の実相を明らかにしました。
 このころ、ヨーロッパで核戦争の危機が高まり、各国で数十万人の大集会が開かれました。
 これら集会での証言に日本被団協に対する依頼が続いだのであります。
 1978年と1982年にニューヨーク国連本部で関かれた国連軍縮特別総会には、日本被団協の代表がそれぞれ40人近く参加し、総会議場での演説のほか、証言活動を展開しました。
 核兵器不拡散条約の再検討会議とその準備委員会で、日本被団協代表は発言機会を確保し、あわせて再検討会議の期間中に、国連本部総会議場ロビーで原爆展を開き、大きな成果を上げました。
 2012年、NPT再検討会議準備委員会でノルウェ一政府が「核兵器の人道的影響に関する会議」の開催を提案し、2013年から3年にわたる会議で原爆被害者の証言が重く受けとめられ「核兵器禁止条約j交渉会議に発展いたしました。
 2016年4月、日本被団協が提案し世界の原爆被害者が時びかけた「核兵器の禁止・廃絶を求める国際署名」は大きく広がり、1370万を超える署名を国連に提出いたしました。

 その結果でもありますが、2017年7月7ひに122か国の賛同をえて「核兵器禁止条約」が制定されたのであります。
 これは私たちにとって大変大きな喜びでありました。
 さて、核兵器の保有と使用を前提とする核抑止論ではなく、核兵器は一発たりとち持つてはいけないというのが原爆被害者の心からの願いであります。

 想像してみてください。
 直ちに発射できる核弾頭が4000発もあるということを。
 広島や長崎で起こったことの数百倍、数千倍の被害が直ちに現出することがあるということ。
 みなさんがいつ被害者になってもおかしくない、あるいは、加害者になるかもしれない状況がございます。
 ですから、核兵器をなくしていくためにどうしたらいいか、世界中のみなさんで共に話し合い、求めていただきたいと思うのであります。
 原爆被害者の現在の平均年齢は85歳。

 10年先には直接の被爆体験者としての証言ができるのは数人になるかもしれません。
 これからは、私たちがやってきた運動を、次の世代のみなさんが、工夫して築いていくことを期待しております。
 一つ大きな参考になるものがあります。

 それは、日本被団協と密接に協力して被団協運動の記録や被爆者の証言、各地の被団協の活動記録などの保存に努めてきました、NPO法人の「ノーモア・ヒパクシャ記憶遺産を継承する会」の容在であります。
 この会は結成されてから15年近く、粘り強く活動を進めて、被爆者たちの草の根の運動、証言や各地の被爆者団体の運動の記録などをアーカイブスとして保害、管理してまいりました。
 これらを外に向かつて活用する運動に大きく踏み出されることを期待いたします。
 私はこの会が行動を含んだ、実相の普及に全力を傾注する組織になってもらえるのではないかと期待しています。
 国内にとどまらず国際的な活動が大きく展開してくださることを強く願っています。
 世界中のみなさん、「核兵器禁止条約」のさらなる蓄遍化と核兵器廃絶の国際条約の締結を目指し、核兵器の非人道性を感性で受け止めることのできるような原爆体験の証言の場を各国で開いてください。
 とりわけ、核兵器国とそれらの同盟国の市民の中にしっかりと核兵器は人類と共荏できない、共存させてはならないという信念が根付くこと、自国の政府の核政策を変えさせる力になることを私たちは願っています。


 人類が核兵器で自滅することのないように!!
 そして、核兵器も戦争もない世界の人間社会を求めて共に頑張りましょう!!
 ありがとうございました。


 人類が核兵器で自滅することのないように!!
 核兵器も戦争もない世界の人間社会を求めて共に頑張りましょう!!