事務局長の独り言 明治大学平和教育登戸研究所を見学して(1)

2025年11月8日

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 事務局長の若狹良治が、1969年3月21日~1991年6月30日の間、勤務した日本生活協同組合連合会のOB会で、2025年11月7日に中央支所2025年秋の交流会を開催しました。
 会場は、「明治大学・平和教育登戸研究所」を見学しました。
    ▶(2)で当日、若狹がスマホで撮影した写真を掲載します。

 事務局長の若狹良治が、1969年3月21日~1991年6月30日の間、勤務した日本生活協同組合連合会のOB会で、2025年11月7日に中央支所2025年秋の交流会を開催しました。
 会場は、「明治大学・平和教育登戸研究所」を見学しました。
 浅学の徒として恥ずかしながらその存在を知らずに1944年8月29日生まれの81歳。

 もっとも、見学会が終わった後、小田急生田駅前の中華料理店での懇親会で、同じテーブルに座ったのが、藤岡(82歳)、川上・山本・若狭(81歳)の4人がこの施設のことを知らなかった。挨拶で藤岡さんが「大変、貴重な経験をさせてもらった」と言ったが、他の三人も同感。
 若狹は、この貴重な学習知識を拡げる努力をすることにしました。
 
まず、明治大学・平和教育登戸研究所資料館の説明パンフレットに書かれています下記文書を掲載します。

◆登戸研究所とは
 戦前の日本の陸軍の軍事を遂行するための正式名称「第九陸軍技術研究所」(略称:登戸研究所)は、戦前に旧日本陸軍によって開設された研究所。
 ここでは防諜(スパイ活動防止)・諜報(スパイ活動)・謀略(破壊・かく乱活動・暗殺)・宣伝(人心の誘導)のための様々な秘密兵器が開発されました。
登戸研究所は、アジア太平洋戦争において秘密戦の中核を担っており、軍から重要視された研究でありましたが、敗戦とともに閉鎖されまし
 その後、1950年に登戸研究所の跡地の一部を明治大学が購入し、明治大学生田キャンパスが建設され現在に至っています。
 その敷地内に、「明治大学平和教育登戸研究所」があります。

◆設立の目的
 登戸研究所(正式名称:第九陸軍技術研究所)は、戦争に必ず存在する(防諜・諜報・謀略・宣伝)という側面を担っていた研究所でした。
 登戸研究所の研究内容やそこで開発された兵器・資材などは、時には人道上あるいは国際法規上、大きな問題を有するものも含まれています。
 しかし、私たちはこうした戦争の暗部とも言える部分を直視し、戦争の本質や戦前の日本軍が行ってきた諸活動の一端を、冷静に後世に語り継いでいく必要があります。
 私たちは、旧登戸研究所の研究施設であったこの建物を保存・活用して「明治大学・明治大学平和教育登戸研究所資料館」を設立し、この研究所が行った事柄を記録に留め、大学として歴史研究・平和教育・科学教育の発信地とするとともに、地域社会との連携の場としていくことを目指しています。


次に、なぜ、この明治大学が現在の「明治大学平和教育登戸研究所」を開設したのか?そのきっかけが、高校生たちの真剣な研究がその端緒になったことが述べられています。

明治大学平和教育登戸研究所資料館 催事等ご案内

登戸研究所の記憶を引き継ぐ

登戸研究所の記憶を引き継ぐ

高校生たちの取り組み

 1980年代に展開した反核 平和運動の高まりのなか 全国の高校で「平和ゼミナール」活動がはじまり
ます。
 登戸研究所に関する調査活動は、長野県赤穂(あかほ)高校, 川崎市・法政第二高校それぞれの「平和ゼミナール」によって行われていきます。

 彼らは当初, 文化祭での発表を目的にしていまいましたが, 調査活動をすすめるにつれ、徐々に学校では教わらない歴史の事実を自らの手で発掘することの魅力に引き込まれていきます。
 歴史に対してさほど深い知識や問題関心を持たなかったごく普通の高校生たちが、自分たちが生活する地域の戦争の歴史と向き合い、ひたむきな調査活動を行うことによって歴史家もなしえなかった史実の解明を実現していくのです。


川崎市民の活動

 1985年, 川崎市教育委員会は川崎市平和推進施策の一環として, 中原(なかはら)市民会館で「中原平和教育学級」を開設しました。
 そこに集う市民らによって、地域の視点から戦争の本質にせまる調査が始まります。
 登戸研究所の先駆的掘り起こしは、それらの一環として取り組まれました。
 研究所の実態解明に向けて、 現地調査や体験者への聞き取り, アンケート調査などが実施されます。

 これらによって, 『雑書綴(ざっしょつづり)』 の存在が明らかになるなど、第二科をはじめ各科の活動の一端が徐々に判明していきます。
 当時の市民による取り組みは、川崎市中原平和教育学級編「私の街から戦争が見えた謀略秘密基地登戸研究所の謎を追う」(教育史料出版会、1989年)にまとめられています。
 事実を残したい関係者たちの思い一高校生や市民たちの地道な取り組みは、元所員たちの心の扉を少しずつ開いていきます。

 自らの戦争体験について長い間口を閉ざしていた元関係者が、沈黙を破る最大の契機は高校生たちとの触れ合いにありました。
 彼らは、「登戸研究所のことは大人の誰にも話したくなかった。君たちが高校生だから話したのだ」などと言いながら語りはじめます。
 さらに、高校生や市民などと活動を共にするなかで登戸研究所の歴史を継承していきたいと考えはじめた元所員からは、「今の若者に,私の息子に、あの時代のいやな思い出は決して経験させてはならないと思うのは、いや、それを心より願うのは、誰よりも私達の世代ではないでしょうか。私達の過去が平和のために少しでも役立つ事ならばとことん協力させていただきます。」といった意見が出てくるようになりました。

 そのような流れのなか、元所員らは登戸研究所保存と資料館設置を明治大学に要望していきます。
 そして、彼らの願いはついに受け入れられることになりました。
 このようにして、時代を超えて登戸研究所にかかわったすべての人たちの思いが、資料館として結実することとなったのです。
法政二高(神奈川県川崎市)
「登戸研究所!!」
僕たちは、昨年の二高祭(法政二高の文化祭)での発表をおおざっぱに「細菌兵器にかかわること」と決めていました。
そして、五月、郡司裕先生と教員室でその具体化の打ち合わせをしているとき、横で会話を聞いていた渡辺賢二先生から声がかかったのです。
なにやらボロボロの文書を見せて、「これは登戸研究所の職員だった人が持っていた文書で、非常に貴重な文書なんだよ」と説明してくれました。
この名前は、以前社会の授業でチラット聞いたことはありましたが、内容についてはまったくチンプンカンプンでした。
「戦後四〇年以上経った今でも謎につつまれている部分が多く、専門家でもわかっていないということが、僕たちにも調べられるだろうか」という不安もありました。
しかし、それだけに新鮮な感じがして、未知のものに取り組んでみたいという意欲が起こってきたのです。
僕たちは、まず文献学習から始めました。
七三一部隊や登戸研究所を扱った書籍や雑誌記事などを分類して、片っ端から読みました。
また、渡辺先生を通じて、中原平和学級の人たちが調査してきた内容を学びました。
そのうちに自分たちも追体験したいと思い、渡辺先生など中原平和教育学級の人たちに案内をお願いして、登戸研究所の跡地である明治大学生田校舎の見学に行きました。
残念なことに、当時の姿をとどめている建物はほとんど残っていませんでしたが、当時のまま残っているものを見たときは、とても複雑な感じでした。
ひとつは、一見なんでもないような場所でも、「かつてここで風船爆弾が作られ、細菌実験が行われていたのか」と背筋がぞっとする思い。
もうひとつは、「なんだ、なんの変哲もない普通の建物じゃないか。想像していたほどには恐ろしげでもないなあ」という印象です。
あとになって、この「なんの変哲もない」「恐ろしげでない」ことが、実はもっと恐ろしいことなのだと気がつき、さらに研究を進める動機になったのですが。
こうして、春日さんたちとの第一回交流会でハッパをかけられて、僕たちの研究・調査活動にはずみがついたこともあり、どうにか二高祭にまにあって研究発表をすることができました。
内容は、小冊子や模造紙にまとめて発表したのですが、二高祭当日は小学生から大人まで熱心に見てくれ、なかには「今まで見たなかで、いちばん良い企画だ」と言ってくれた人もいて、なんとか成功させることができました。
法政二高平和研究会代表:中塚史行
『高校生が追う陸軍登戸研究所』より
赤穂高校(長野県駒ヶ根市)
私がはじめて「登戸」という言葉を聞いたのは、ある集会のときでした。
高校に入学したと同時に、私は「上伊那高校生平和ゼミナール」というサークル活動に入りました。高校二年生の冬、二月11日の建国記念日の日に、毎年行われている「一日平和学校」が上伊那農業高校でありました。
その内容は、レクリエーション、高校生の交流会 平和学習会などですが、そのなかで、上伊那農業高校の宮下与兵衛先生から陸軍登戸研究所についての報告がありました。
昭和二〇年、陸軍登戸研究所という秘密機関が駒ヶ根市に疎開していたらしいのですが、当時の私には、それほど興味を引くものではなかったのです。
「自分たちの通う高校と同じ場所に疎開してきたのか」という程度の関心でした。
前年の文化祭で平和ゼミの発表をしたのですが、そのときは初めてということもあり、平和ゼミの紹介や広島・長崎の原爆のパネル展、核兵器廃絶の署名程度しかできなかったのです。
二年目は、地元の戦争の傷跡を知ってもらいたいという思いがあったので、なんとか文化祭でそれらのことをまとめたいと、漠然と考えるようになりました。
文化祭は七月にあります。
陸軍登戸研究所のことを調査したいと思っても、メンバーもいないし、それに学年末ということもあり、平和ゼミの担当の先生も交代の時期でした。
何から手をつけたらよいのか分からない状態のまま、新学期に入ってしまいました。
[中略]
当時、赤穂高校平和ゼミナールのメンバーは、生徒会長の傑君、副会長の池田幸代さん、それに私の三名でした。
昔、生徒会執行部の役員ということもあり、思うように聞き取り調査の日程が決まらず、結局、文化祭の際になってやっと調査にとりかかるという状態でした。
上伊那地区の陸軍登戸研究所に詳しいという市会議員の方からもレクチャーをしていただいたり、図書館に行って資料を探したりしたのですが、登戸研究所に関するものはほとんど皆無に等しい状態でした。
放課後や学校が休みの日を利用して、先生の車に乗り、都合のつく人たちで登戸研究所があったという場所へ出かけ、片っ端から近所のお宅を訪ねて、登戸研究所のことを聞いてまわりました。
[中略]
スタートは三人だったメンバーも、クラブ活動の終わったクラスの友だちや、隣のクラスの友だちも手伝ってくれるようになり、一〇人近くになりました。
中沢地区の林茂樹さん宅を訪ねたとき、なんと登戸研究所が使用していたというフラスコが見つかりました。
そのフラスコを手にしたときは、調査していたことが一気に身近なものとなり、とても嬉しかったのを覚えています。
その後、登戸研究所の本部であった中沢小学校から当時の実験器具が見つかるなど、徐々にですが成果も出てきました。
聞き取り調査の内容や実験器具、さらには本から調べたことなどをまとめ、文化祭に発表することができました。
赤穂高校平和ゼミナール代表:春日いづみ
『高校生が追う陸軍登戸研究所」より