事務局長の独り言 過去の取組(活動)紹介

2024年3月6日

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◆事務局長の独り言 目次

日本生活協同組合連合会 本部事業部に在籍していた1970年代から1980年初頭の頃の商品担当(水産担当、生鮮課長)当時の活動を1985年に人事教育担当、課長になった時に執筆しました。

目次

◆事務局長の独り言 目次◆

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事務局長の独り言 若狹良治 プロフィール
事務局長の独り言 書籍出版 「おいしい魚をさがす」日本生協連(1985出版)
事務局長の独り言 生協の低公害車開発・普及への取り組みの意義

事務局長の独り言 DME燃料の取組(活動)紹介

温故知新 古きを訪ねて新しきを知る低公害車としてのLPGトラックの開発と普及(2024年5月26日に作成)

事務局長の独り言 コープ低公害車開発株式会社 解散のご挨拶
事務局長の独り言 新聞報道に見る「コープ低公害車開発株式会社の16年の歩み
温故知新 古きを訪ねて新しきを知る
低公害車としてのLPGトラックの開発と普及
事務局長の独り言 コープ低公害車開発株式会社の沿革・参加生協
事務局長の独り言 コープ低公害車開発㈱の15年の活動と今後の課題


事務局長の独り言 LPGトラック4WD走行車の開発へ
事務局長の独り言 1998年におけるCO-OP・EVの中間総括(成果と課題)

【ひとこと・若狭良治】機関月刊誌 CO-OP・EVプログレス掲載時の文書
コープ低公害車開発株式会社が神奈川県環境部のご推薦を受けて、「平成10年度 地域環境保全功労者表彰」を受賞することができました。
推薦いただいた神奈川県の担当の方は全国を対象とした活動を進めてきていることで、「地域」ということではないのだがということでした。
しかし、私どもは、この間LPGトラックの普及活動を進める中で、LPGトラックの導入の意義について次のように説明してきました。
「地球環境保全」となると頭ではなんとなくわかるが、 体で実感できない。
しかし、 職場の作業・労働環境を改善するということであると、排ガスの臭いや黒煙、騒音、振動などをどのように削減するかということで、具体的な課題として理解ができる。
実際に、配送センターでディーゼルトラックからLPGトラックへの転換が進むに従い、朝の排ガス公害が改善してきたという具体的な現場報告を受けた時、推進してきた者としても、活動の意義の理解が深まりました。
そのような立場から見ると、今回の「地域環境」というジャンルは、むしろわたしたちが進めてきたことをわかりやすく評価していただいたという感想を持ちました。
今日、 トヨタのハイブリッドカー『プリウス』 の広告などの影響もあり、一般ユーザーの環境にやさしい車両への関心は高まってきています。
具体的には、そのような車両の購入を望む消費者が増えているというアンケート結果も報道されています。
電気自動車(EV) や天然ガス自動車 (CNG) ハイブリッドカー (HEV など) の普及も進んできています。
しかし、ここで問題なのは、環境庁が推進してきた『低公害車』は代替エネルギー車であることが条件となっていることです。
それ自体は従来車両より排ガス性状が相対的にクリーンですが、現実的にディーゼル代替としては機能しきれない弱点を持っています。その理由として挙げられるのは、燃料がガソリンや軽油と比較して、携帯性に難があることです。そのため、ガソリン・軽油に勝る燃料はないとまで言われています。
そのような中で、 LPG (液化石油ガス)は、40年前からタクシー燃料としてガソリン代替燃料として使用されてきました。そのために、ガソリンと同じ排ガス規制を受け、従来エネルギーとして低減を目指す燃料とされてきました。
コープ低公害車開発㈱は、開発参加生協の要望を受け、現実的な低害化を目指す立場から、ディーゼル代替が可能な車両であって、現実的に低公害なLPGトラックを自動車メーカーと共同で開発し普及を図ってきました。
今回、環境庁からこれまでの8年間の活動が評価され、「地域環境保全功労者」として表彰されたことは、これまでの活動が間違っていなかったこと。また、行政の進めてきた大気汚染防止および保全活動に対して、ユーザーの立場から積極的に改善を目指して提言してきたことが認められたものと受けとめました。
今回の「受賞」 と「朝日新聞の人欄」に載ったことを誰よりも喜んでいただいたのは、全国の生協の組合員の皆さんでした。組合員さんたちが今まで行ってきた大気汚染測定活動の成果として自分たちのこととして喜んでいただきました。
また、パートさんたちが切抜きを持って出勤してきました。元気が出ました。ありがとうございます。
人ひと 「低公害車」を普及促進―若狭 良治
生協に低公害車約5,500台(転換率約35%)を普及促進したコープ低公害車開発がこの3月に16年の幕を閉じる。
普及促進を担ってきた同社若狭良治氏(代表取締役専務)は「まだやり残した事も多々ありますが、ともかく、この16年で一定の成果を挙げることができました」と振り返る。
普及促進は、一人の力ではなし得ない活動。
それを支え続けたのは、同氏の真摯な姿勢と、めげることのない一途な性格。
専門的に知識を得ないと理解が深められない車の内燃機関や構造。
今では、専門家と真っ正面から議論するほどの横溢した知識が詰まっている。
その中で、LPGエンジンの共同改良開発、インフラ整備、環境負荷軽減のためのセミナーなどを開催実践的な啓発活動は、生協のみならず、行政も動かしてきた。
民間配送業者のLPG車採用の原動力ともなった。
「環境負荷啓発は、地味で地道な活動 成果を挙げるには持続的に活動を推進していかなければなりません。
コープ低公害車開発は3月16年の幕を閉じますが、生協の中で積極的に評価されたなら幸甚です」
柔和な表情の中に一瞬、寂塞感を漂わせたが、豪放磊落な笑いで、その隙をかき消した。
今後は、持続的な環境社会の創出から「環境にやさしい次世代燃料「DME」使用の自動車研究開発と普及」などを推進していく。
62歳。
1996年 神奈川県・かながわ地球環境賞受賞。
1998年 環境庁・地域環境保全功労賞受賞。
2006年2月20日 (月) 第302号
生協流通新聞
2006年(平成18年) 10 月17日(火曜日)  読売新聞
【彩の人】 「次世代燃料DMEを使う自動車の普及に取り組む」
「足元を見ながら新技術に挑戦」
若狭良治さん 62歳(さいたま市桜区)
 DME(ジメチルエーテル)は、天然ガスや石炭のほか、バイオマス(生物資源)や産業廃棄物などからも生成できる。
 二酸化炭素や窒素酸化物の排出畳が少ないとされ、低公害な点も注目されている新エネルギーだ。
 今年4月、民間プロジェクト組織「DME自動車普及推進委員会」の事務局長を引き受け、さいたま市浦和区に事務所を設けた。
 自然エネルギー研究センター「NERC(ネルク)」(本社・札幌市)の東京支所を兼ねる。
「NERCは学生時代の友人が始めた企業。『看板を貸してほしい。自分で稼ぐから』と頼んで支所長となりました」と苦笑する。
 委員会は自動車部品メーカーや燃料製造企業、商社など門社で組織され、「自動車」「燃料」「インフラ」の3部会を持つ。
 まずは「黒煙が出ないなどの優れた燃料としての特性」を踏まえ、排ガス規制が段階的に厳しくなるディーゼルエンジンへの実用化を目指す。
事務局は、企業が行う共同研究などのプロジェクトにおいて、重要な調整役などを担っている。
 中国・ハルビン市生まれ。北海道大農学部を卒業後、日本生活協同組合連合会の北海道支所に就職。「はじめはイカやアスパラなどを求めて北海道内を走り回った。
 東京の本部に異動後、冷凍魚の担当になり、お魚の本を出した」と振り返る。
 コープかながわ(横浜市)に移った1991年、生協の関連企業「コープ電動車両開発」(1994年にコープ低公害車開発に社名変更)に出向し、電気トラックの研究開発を任された。
後に自動車メーカーと、液化石油ガス(LPG)トラックの試作に挑んだ。
その結果、全国の各生協が保有する配送トラックのうち約35%がLPGに転換されるなど、一定の役割を果たしたとして、同社は今年3月に閉鎖された。
 自身も、「大学1年から42年間世話になった」という生協を「卒業」した。
 DMEの実用化に向けては、幾つも壁が立ちはだかる。
 「まだ普及に必要なDME自動車の法的な構造基準がない。補充スタンドの整備も必要。現実の足元をしっかり見ながら挑戦し続けたい」と決意を語った。(新井勝)


「夢を抱きつつ現実を直視して仕事を進めたい」と意欲語る若狭さん
2009年1月3日 朝日新聞
縦割り打破!エコトラック業界を束ねて低公害車を開発 若狭 良治さん (65)

 天然ガスや石炭からするジメチルエーテル(DME)という燃料がある。
 これをトラックの次世代燃料にしようと取り組んで10年目になる。
 ディーゼルエンジンに使う軽油に比べ二酸化炭素の排出は少なく、ぜんそくの原因の粒子状物質は極めて少ない。
 環境保護に最適な低公害車は何かを、何か、と考えた結論がこれだ。
 一直線にDMEにたどり着いたわけではない。
 まず試みたのは電気だ。
 日本生活協同組合連合会に勤めていた私が加盟生協に頼まれ、小型電気トラックを開発する小さな会社に移ったのは1991年。
 メーカー共同開発したが、1回の充電で走れる距離はわずか50キロで、2千万円もした。実用には向かない。
 そんな頃、トヨタ自動車が液化石油ガス(LPG)を燃料にしたごみ収集車を作ろうとしていることを知った。
 LPGは粒子状物質を出さないし、すでにタンシーにも使われていて、開発は難しくない。小型トラックの共同開発を持ちかけた。
 完成車を見て、加盟生協の中には「電気トラックには夢があったが、LPGでは」と採用を渋るところもあった。
 だが、大切なのは 「実用的」なこと。約7千台を導入した。
 ただLPGはガソリンエンジンを使うので、中型より大きなトラクには向かない。
 研究者を回り、行き着ついたのが、スプレーの噴射剤などに使うDMEだ。
 業界は「補給所の設備が大変だ」などと否定的だった。
 2001年、人脈をたどり、産業技術総合研究所や伊藤忠商事、岩谷産業などに打診してみた。
すると、各社ともDMEに意欲的であった。
 翌年に部長や課長クラスを中心にしたグループができた。
 試作には億単位の金がかかる。親しい大学教授らに協力してもらい、国の補助金を申請した。
支給されるまでは生協から2億円を借りてしのいだ。
 2003年 いすず中央研究所の協力で4トン積み中型トラックの試作車が完成した。
 同じ補助金で、新潟市などにDMEの補給所が4カ所できた。
 試作車は立派に走った。
 燃費や耐久性試験などを続けるうちにようやく昨年、国が動いた。
 国土交通省の公募事業にいすゞ中央研究所が手をあげ、新潟県首都圏で2台のトラックの耐久実験が始まった。
 実用化への大きな一歩だ。
 今年2月には、 木材からつくったバイオDME燃料をDMEに混ぜ、走行実験をする。
 木材を利用することで、さらに二酸化炭素の排出が減らせる。
 燃料は経済産業省、自動車交通は国土交通省と、縦割り行政の弊害から、一緒にDME車を普及しようという意欲が乏しく、それが影を落としていた。
 こんな無味なことはない。
 共同開発したグループは2006年、豊田通商なども加わり「DME自動車普及促進委員会」に発展した。
 私は事務局長を務めている。
 それぞれの企業や研究所が協力し、お金を出し合い、風通しをよくして、目標に向かう。
 我々の役割はそこにある。
(聞き手・杉本裕明)


事務局長の独り言 低公害車と飼料用米とのつながりとは?
事務局長の独り言 2009年3月 食べ物通信の掲載記事
事務局長の独り言 歴史に学ぶ 【食料安全保障とは何か?】
事務局長の独り言 最新の情報 鈴木宣弘東京大学教授と加藤好一当協会副理事長の対談
事務局長の独り言 最初の飼料用米普及のためのシンポジウムへのつながり
事務局長の独り言 日本で・世界で・最初の電気自動車霊柩車を送り出した経験談

日本で初めての電気(EV)霊柩車(透明ガラス張り)を送り出した経験談
若狹良治(一般社団法人日本飼料用米振興協会 理事・事務局長)
  (1996年6月当時 コープ低公害車開発株式会社 部長):
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年月が経つと、情報も狂ってくるのかな?
白い車体を濃紺に塗装し、後部の窓ガラスもスモークでも目隠しでもない透明なガラスである。
棺をお花で飾って、お見送りの方々から見守られる葬列が目に浮かびます。
英国エリザベス女王が自ら設計された自分の霊柩車は、同じ様に透明のガラス張りでした。


 この透明ガラスを提案されたのは、神奈川県三浦市の葬儀会社「藤葬祭」の藤社長の先見性にビックリです。
思い出しましたEV霊柩車の話(26年ほど昔話)
 コープかながわ、しずおかなど全国の有志生協で設立したコープ電動車両開発株式会社(コープEV:生協の共同購入などの配送トラックの低公害化を目指した)で、第三次試作車まで電動トラックを開発、トータル6台を生協で使用した。
 そんな時代に、7つの自治体(7都県市:東京都・埼玉県・千葉県・神奈川県・横浜市・川崎市・千葉市)と相模原市が共同購入したのが、トヨタタウンエースバンEV。
 それを購入した神奈川県環境部が1年でもてあまし、当時、コープEVも電気トラックからLPGトラックに転換を進めていた頃、トヨタの神奈川県のディーラー担当から愚痴を聞いた。
 「神奈川トヨタが困っている。神奈川県に納入したタウンエースEVが、3年契約なのに1年でキャンセルされてしまった。」とのこと。
 そこで低公害車フェアで知り合った神奈川県三浦市の藤葬祭さんと相談したところ、「白いタウンエースを濃紺にカラー塗装。窓は敢えて中が見えるようにお花で飾る」と言う。
 その時、霊柩車と言うとお宮型が真っ先に頭に浮かび、窓は当然にも中が見えないものと考えていた私は、目を白黒させた。

 実際に使用する藤さんの提案なのでその方向で話を進めることにした。 
 今年(2022年)、英国のエリザベス二世女王がお亡くなりになったが、その際の棺の輸送に使用した霊柩車のデザインはシンプルで、棺が見えるように窓がガラス張りであった。
 なんでも、女王が自ら提案したデザインだという。
 それからすると、1996年にこのようなシンプルな窓から棺が見えるスタイルのデザインを提言した藤さんの「先見の明」に改めて敬意を表します。

 早速、その時点で所有者であったカローラ神奈川の了解を得て、トヨタ自動車本体の了解を得ることにした。
 早速、改造許可の了解を得るのにトヨタ(愛知県豊田市)に出張した。
 トヨタの電気自動車開発担当(主査)と話し合った。
 本人としては予想もしなかった提案に「いじめないで下さい」と言う。
 「いじめてなんていないよ、まじめな相談です。」と言って、説明してオーケーをもらった。
 横浜市のトヨタテクノに霊柩車の改造してもらった。
 早速、ニュースリリース(1996年6月11日)を作成して、霞が関の環境庁の中庭でお披露目を行った。
 その後、お葬儀で使用され、葬家のお孫さんが「お家のおじいちゃん、電気自動車であの世に行った」と言ったとの話を聞いた。
 しばらくして、写真週刊誌「フォーカス」にカラーで大きく掲載されたが、「コープEV・若狭・トヨタ」の話は全く書かれなかった。
 世の中、そんなものだろう。
 日産リーフEV霊柩車のニュースに「日本初の」と書いてあるので、そんなことを思い出した。
 コープEVで働いていた組合員さんから「若狭さんは早すぎた」と言われたが、これもそんなものだろう。
 コープEVのその話の5年ほど前、日本生協連指導部職域生協担当の頃、食堂研究会や葬祭事業研究会を作って職域生協の発展方向などを勉強したが、そういった取り組みの一つの発展形と私は考えていた。
 また、職域生協担当を4年ほど務め、日本生協連中央地連事務局次長・組織課長となった際に、環境問題に触れ、今後の自分の方向を環境対策と定め、話のあったコープかながわ、コープしずおかの呼びかけで有志生協で創立されたコープ電動車両開発株式会社を所管しているコープかながわ(本部:新横浜)に移籍した。
 しかし、当時の能力では、モーター、コントローラー、蓄電池のレベルは低く、現在のような優秀なモーター、先進的な電子部品、高性能蓄電池が無く、鉛電池や500個あまりのトランジスターコントローラー、モーターはGEの工業用モーターしかなく、それもアメリカのソレック社というベンチャー企業に組み立ててもらった。
 正直、移籍後、3日でガックリし、3週間で諦めて、3ヶ月でやるしかないと覚悟を固めた。
 移籍じゃなく、出向の方が良いとのアドバイスも頂いていたが、自分で退路は断った。
 3年後に、今後の会社のあり方論議を進め、「電動車両開発=EV」を「低公害車開発=EcoV=EV」と社名を変え、目標を生協で共同購入事業で使用する配送トラック(2トンクラス)の現実的な低公害車として、トヨタ自動車と共同開発したのがLPガストラック(1.5トン積載車)である。
 そんな時期に、トヨタ自動車の特販部を窓口として付き合い、コープEVのある神奈川県を担当しているトヨタの販売促進担当と話し合う機会が多くなった。
 そんな中でのトヨタの担当者の愚痴を何とかしないと行動を起こした結果である。
 今日の電気自動車の発展方向を見ると隔世の感を強くする。
 同時に、私たちが目指した電気トラックは、現在も生産はされ、販売もされているが、正直乗用車と異なり、運んで幾らの世界のトラックでは、環境問題だけでは実現は難しい。
 経済問題を克服して、様々な意味で成果が得られるのは最低でも30年は必要と思う。
 しかし、その30年も目の前である。
 それでもまだまだ道半ばの感を禁じ得ない。
 最後は、私に愚痴だが、そもそも、生協が自力(補助金なしで)で電気自動車を作ろうとした話自体、現在の生協でそんな無茶をするような先進性(?=無茶)を果して、今の生協は持っているのだろうか?
 言うと嫌われるんだろうなと思いつつ・・・・つい書いちゃいました。
m(_ _)m▼σ(^_^;)?▼▼▼σ(^_^;)?
2019年9月16日に書いたものを2022年12月4日にrewrite

EV霊柩車 日本初、世界初 1996年6月11日 プレスリリースPDF

◆ 電気自動車(EV)の霊柩車。特徴と導入のメリット。
1 音が静かである。
2 排出ガスの臭いや刺激性のガスが出ない。
-地方によって、霊柩車の後を歩くことがあり、排ガスを吸わないで歩ける。
3 夜間の出動はしない。夜間はじっくり充電できる。
4 どんな時でも、80、100km/hなどの高速走行はしない。
5 使用時の計画が事前にわかり、電気自動車の走行性能に合わせた利用が可能。
6 業界では車両の管理上、丁寧に扱い、車両寿命の長いため、電気自動車の耐久性と持続性を実証的に検証できる。
7 霊枢車は、少量の改造車で、もともとコストが高く、現状での電気自動車のコストを、他の利用よりも吸収し易い。(今回の霊柩車は音型ではなく、洋型です。)
8 現在、官公庁で使用されている電気自動車(トヨタ・タウンエース)の有効活用が考えられる。(資源の有効活用)
◆ 開発経過
1992年 藤喜代司(藤尾 代表)『92年低公害車フェアー(環境庁等主催)』(代々木公園)に参加し、電気自動車に初めて触れる。
コープ電動車両開発㈹(コープ低公害車開発㈱の前身)の電気トラックを見て、霊枢車への応用のヒントを得る。
1995年 コープ低公害車開発㈱と相談し、いすゞ自動車㈱森沢工場で電気トラックを見学し、霊柩車への応用を検討したが、デザイン上の困難があり、断念。
1995年 コープ低公害車開発㈹の案内でトヨタタウンエースEVを試乗。可能性について夢が広がる。
1996年 コープ低公害車開発㈱のコーディネートによりトヨタ自動車㈱の協力が得られ、車両の確保と改造が実現。
所有者(購入者)_共同起案者
第1号車 有限会社 蔵屋(代表取錆役 鳶 喜代司)
神奈川県三浦市三崎1-2-23   TEL O468(81)2301 FAX O468(82)6267
◆ 使用エリア
第1号車 当面、神奈川県三浦市周辺。
地域住民、生協(コープかながわをはじめ、利用者への提供)なども。
発表者
コーディネーター(推進者)・開発企画
コープ低公害車開発株式会社(本社:横浜市港北区新横浜2-5-11)
取締役・統括マネジャー 若狭良治 TEL O45(472)7913  FAX O45 く472)7924
共同企画・開発
トヨタ自動車株式会社 特販・特装車両部(部長 沢崎忠昭)
担当課長 金子 撤 T E L O52(952)3624  FAX O52(952)4967
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構造変更者
トヨタテクノクラフト株式会社(横浜工場:横浜市港北区師岡町800)
担当係長 菱田太郎 T E L O45(540)2111  FA X O45(540)2112
販売者
トヨタカローラ神奈川株式会社 特販営業所く横浜市保土ヶ谷区狩場町65)
所長 宮村八郎  TEL O45(715)8910  FA X O45(715)8803
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導入者のコメント
新しい時代を幕開けを!!
1996年6月11日
有限会社 藤  屋
代表取締役 藤 喜代司
子供の頃、仲間と遊んでいて、自動車の後を追いかけ、排気ガスの匂いを喚いでいい香りだと思ったものです。
しかし、やがて悪臭に変わり、気分が悪くなってきました。
まだまだ、自動車が少なく、珍しい時代でした。
大人になって、家集を継ぎ、霊枢車の運転をしたり・お見送りをしているうちに、排気ガスが鼻につくのに気がつきました。
それ以来すごく気になるようになりました。
ある所では、霊枢車に棺をお乗せしたあと、100メートル位の距離をみんなで霊柩車の後を歩いて、皆さんが乗る車の駐車場まで行くことがあります。このような時は大変です。
私も歩いたことが何度もありますが、相当離れていても、排ガスが気になり・ついて歩くことが苦痛でした。排ガスの出るパイプの真後は歩きたくないものです。
全体から見れば、走行することが少ない霊枢車でさえ、このように排ガスが気になるのです。
これが何千万台となると、その被害は大変なものであることは間違いないでしょう。
私が電気自動車(EV)に強い興味をもったのは、協会(全霊協:全国霊枢自動車協会)から『92年度 低公害車フェアー(東京・代々木公園)』の資料が送られてきて・見学にいったのがそもそものきっかけでした。その時、電気スクーターに乗せていただきました。そのスムーズで・音もない乗り心地というのがはじめての感想でした。
それから何とかなりそうだと思ったり・やっぱり無理だと思ったり・様々なことがありました。
今回、コープ低公害車開発㈱はトヨタ自動車㈱(本社特販・特装車両部、カローラ神奈川㈱、トヨタテクノクラフト㈱)のご支援を得て、夢がかなえられ・大変嬉しく思います。
事はこれからだと思います。実用化というか、生活に溶け込んでいくまでにはまだまだ多くの困難を抱えていると思います。
私たちの業界にも、一台でも多く普及し、ユーザーの立場から環境への取組みが強化されるよう、呼かけていきたいと思います。
クリーンなハーモニーを奏でていきたいと思っていますが、これを機会に、ユーザーの希望がどのように出てくるのか、教育と文化と、マスコミが、どう日本人を完成させてきたのか、等々も少し図れるのか、など少し意地の悪いことも考えながら頑張っていきたいと思います。
いろんなことが頭をよぎります。
いずれにいたしましても、新しい幕を開けようではありませんか!!

今回、環境庁・大気保全局自動車環境第一課・運輸省陸運局の皆様にご指導とお力添えをいただき感謝申し上げます。
本日は誠にありがとうございました。
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コーディネーター・企画開発者のコメント
ユーザーの立場からの電気自動車の可能性の追究
使うメリットとコストは普及のための重要な要件
1996年6月11日
コープ低公害車開発株式会社
取締役・統括マネジャー 若狭良治
今、世の中では、インターネットやマルチメディアといったことが大流行です。
また、環境ということも、-いろんなことを語る場合のキーワードになっておりますが、実際の活用の場面になりますと、評価様々、現実は巌しいという事になります。
私どもが、生協の共同購入事業で使用している小型トラック(現状では、ディーゼルエンジン車が多数を占めている)の低音化を目指して、電気トラックの開発を目指しました。
性能面では・現在の技術力でもなんとか実用化の目処は立ちました。
もちろん、品質面では現在の内燃エンジン車に比べてまだまだ研究途上であることも現実です。
しかし、問題はそんなことよりも、導入コストと運用コストの両面で、全く実用化の目処が立たないのです。
私どもは、次の策として、LPG(液化石油ガス)を燃料とする小型トラックの低公害性に注目し、トヨタ自動車㈱、三菱自動車工業㈱、マツダ㈱と共同でLPG小型トラックを開発し普及を進めています。
しかし、ここでも問題になるのは、導入と運用コスト・LPGスタンドのインフラ整備の問題です。
私どもは、LPGトラックの低公害性や経済コスト・実際に使う現場における作業環境の改善などといった目の前の問題を一つ一つ克服しながら進めております。
そのような活動によって・現在2年間の積み上げで530台を超えた導入が実現しています。
さて、電気自動車もその乗り心地の良さや横出ガスを出さないというわかりやすい低公害性のためにその普及を望む声が大きくなっています。しかし、そのコストの高さや性能面での限界などから、実際に使って欲しい場面での使用ではなく、「導入のための導入」、「性能に合わせた使用」という逆転した状態になっています。
私どもは、利用したい場所での利用を前面に掲げて、排出ガスが一番問題になっているトラックへの利用という立場で進めてきましたが・その意味では断念せざるを得ない状況だと判断しました。
一方、本格的な高齢化社会の訪れを前にして、生活全般への生協の役割が求められており・生協でも葬祭事業への参加く神奈川県生協連・コープかながわなどによるコープ葬祭㈱など全国的に取り組みが拡大してきている)をしてきています。
そのようなことを含めて、検討を加えてきた結果・霊柩車への応用が浮上しました。
また、藤屋さん(代表取締役・藤喜代司、霊枢車事業者)からの相談があったことをきっかけに具体的な検討を加えてきました。
種々の検討を経て、この間・小型電気トラックの研究開発を進めてきた実績とLPGトラックの研究開発・普及という両面からトヨタ自動車㈱の特販・特装車両部と第3開発センター(EV)の理解と協力を得ることができ、EV霊枢車の実現ができたものです。
藤さんがコメントしていますように、実際の現場での導入に対する要望が強く有り、コスト側面で展望が見えてくると民間の独力での導入が促進されていくものと考えております。
率直にいいまして、最初に「電気自動車の導入普及」ありきではなく、「この場面・この場所で利用したいという具体的な要=利用メリット」があって、その次に「性能・コストでの見通しができる」ことが普及促進の原動力となると考えます。「補助金にのみ頼った導入普及策」は、所詮は「金の切れ目は縁の切れ目」になるのではないかと思います。
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(参考資料)コープ低公害車開発株式会社の活動
(1)電気自動車の研究開発
生協で使用している共同購入車両の「黒煙」や「窒素酸化物くNOx)」等を排出しない電気トラックを開発しようとコープかながわく本部:横浜市)が呼びかけて有志生協で90年7月にコープ電動車両開発株式会社を設立した。現在22生協が株主生協となり、総計38生協が開発に参加している。
いすゞ自動車株式会社と共同で、第1次試作車(91.1)、第2次試作車(92・5)、第3次試作車(93・10)を完成した。
* 93年3月に第2次試作車の実用走行車を東都生協・ジョイコープ(東京都)に納車した。
* 94年3月に第3次試作車の実用走行車をコープとうきょう(東京都)に納車した。
このようにユーザーの立場で研究・実験を行ってきたことで、性能面(走行距離・積載重量・実用走行性能)では業務を遂行することが可能だが、導入と運用には、現状の車と比べてコストが高く、大幅に導入普及することが困難なことがわかった。
しかし、NOxをはじめとする大気汚染が改善の兆しを見せないことから、より低公害な車の開発と普及が急務となっていた。
現在、コストが優先するトラックの分野では、電気トラックの導入の目処が立たないため、電気トラックの開発は、コープ低公害車開発㈱としては中止状態になっている。
(2)NOx対応で第1段階は、直噴式ディーゼルを副宝式ディーゼルへ切り替え
全国で1万数千台走っている共同購入車両をすべて電気自動車にしていくまでにはかなりの年数を要することから、開発に参加してきた生協で、「ディーゼルトラックを直噴式を副室式に切り替えること」や「配達コースの見直しによる効率改善」等による排出ガスの低減化に取り組んできた。
しかし、黒煙や発癌性があるといわれているSPM(浮遊粒子状物質)を根絶できないし、NOxも充分こ減らしたと言えない状態であった。
(3)絵合的な判断で、くLPGトラック)の導入普及をはかる
開発参加している生協の実務担当者による『生協EV・低公害車検討実務担当者会議』を92年7月に第1回を開催し、現在までに16回を数えた。
そこで当面のNOxなどの排出ガスに対する「効果的な具体的策」を検討を進めてきた。
その結果・当面の対応策として、LPGトラックの検討を始め、メーカー(トヨタ自動車と具体的に進んだ。それ以外のメーカーとも接触を行なった。しかし・他メーカーはその時点では同意を得られなかった)と交渉し、93年11月にモニター車の完成をみた。
その後、モニター車を全国30カ所以上で説明会と実証テストを行なった。
その結果を踏まえて・94年6月から生産を開始し、94年7月4日にえひめ生協に第1号車が導入され・その後順次導入が進み、96年5月で530台が生協に納車された。
その普及の経過で三菱自動車工業㈱・マツ卵㈹が共同開発に参加し、96年より供給を開始している。

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脱ガソリン車は葬儀業界にも影響?
霊柩車もEV化!
日本初「リーフ霊柩車」なぜ導入したのか
2020.12.20 加藤久美子
https://kuruma-news.jp/
連日のように「脱ガソリン車」の報道が流れていますが、人生最後の祭典となる葬儀においてもその傾向が現われているといいます。従来の霊柩車は、アメリカ製のリンカーンやトヨタ「クラウン」などが主流でしたが、2020年には日産の電気自動車「リーフ」をベースとしたEV化された霊柩車が登場しました。なぜ、電気霊柩車を導入したのでしょうか。
霊柩車にEVを導入した理由は?
 脱ガソリン車の動きが国内外で広がりを見せるなか、日本政府は2030年代半ばまでに「純ガソリン車」の新車販売を禁止する考えを示しました。
 そうした昨今の状況からか、亡くなられた人を斎場から火葬場に運ぶ霊柩車の世界にも、ついにEVが登場したといいます。
日本初!? 霊柩車にEVを導入? 日産「リーフ」ベースの全長6m超えモデル
 日産「リーフ」をベースとした日本初の電気霊柩車を導入したのは、株式会社日本セレモニー(本社:山口県下関市)という会社です。同社は東北と西日本合計で212箇所の斎場「典礼会館」を展開しています。
 2019年12月末に納車されたという日本初の電気霊柩車は、まず何よりも白を基調としたボディカラーが印象的です。
 環境に配慮したクリーンなイメージのスタイルは、おごそかな雰囲気も感じられます。
 ボディサイズは全長6480mm×全幅1790mm×全高1530mm、ホイールベース4700mm。ホイールベースだけで普通車1台分の長さがあることに驚きます。
 ベースとなるリーフのボディサイズは、全長4480mm×全幅1790mm×全高1560mm、ホイールベース2700mmなので、ホイールベースを2m延長した分がそのまま全長に反映されています。
 なお、車両総重量は標準リーフが約1.7tから1.9tのところ、霊柩車リーフは約2.3tとかなり重くなっています。
 ちなみに、同社で使用しているリンカーン「タウンカー」をベースにした霊柩車のサイズは、全長6980mm×全幅1990mm×全高1550mm、ホイールベース4450mm。全長と全幅に大きな違いがあり、リーフ霊柩車は日本の道路事情にもマッチしたサイズになっています。
 導入されて約11か月経過した現在の走行距離は8142km。走行するルートは決まっており、1か月に40回から50回、斎場と火葬場の往復だけで使用されているそうです。


事務局長の独り言 店長のためのマネジメント基礎講座


新情報(COOP無漂白カズノコ誕生50周年に当たり)
事務局長の独り言 日本生協連での活動(水産時代)無漂白カズノコ誕生
事務局長の独り言 日本生協連指導部時代の経験
 特に職域生協の担当で食堂事業、店舗事業、葬祭事業など研究会を作って一緒に学びました。
 併せて、役職員研修を積極的に進めました。
 指導部に異動する前は、4年間人事教育(総務部人事教育課長、人為教育部人事教育課長)だったことが役立ちました。
事務局長の独り言 学生時代の活動と当時の「うたごえ」の仲間の元気な便り
 2023年8月開催の「日本のうたごえ北海道大会」に全国から卒業生の仲間が集まり、同窓生による「タンポポ合唱団」で参加し、
 仲間の交流風景が送られてきました。」

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 住んでいるマンションの管理組合の理事長を務めています。
 大規模修繕やその他、不具合が見つかると、単なる復旧ではなく、以前よりも良くするバージョンアップを目指しています。
事務局長の地元 マンション管理組合 理事長と大規模修繕専門委員会委員長などを歴任しました。
 
 2008年3月 マンションに転居
 マンショントラブル発生(総戸数94戸のうち34戸が販売不能・管理費未納で問題発生)
 2008年7月12日 マンション管理組合設立総会 で問題提起(議長を務め、方針変更を認めさせた)
 修正意見 
 2010年4月~2012年3月(第3~4期)居住マンション管理組合・理事長
 2016年4月~2018年3月(第9~12期)居住マンション管理組合・理事長
 2018年4月~2020年3月(第11~12期)管理組合・理事長
 2020年4月~2022年3月 管理組合大規模修繕専門委員会委員長
 2022年4月~2024年3月(第15~16期)メロディハイム武蔵浦和プライムフィールド管理組合 理事長

 2024年3月30日 メロディハイム武蔵浦和プライムフィールド管理組合 理事長退任しました。

事務局長の地元 地元の仲間で100%ZOOMによるリモートカフェ
 地元の仲間で100%ZOOMによるリモートカフェの店長を務めています。第25回を迎えます。
 
 リモートカフェのご紹介


「日本生協連指導部時代の経験」から

日本生協連のOB会「友の会」総会が4月20日にあったとの報告をフェースブックで知らされた。その日は、マンションの第17期第1回理事会で私は3月で約10年ほど務めた理事長を降りたが、その引き継ぎで友の会総会は欠席した。
その報告を読みながら、下記のアメリカ大使館員の方の話を思い出しました。

http://j-fra.or.jp/productsindex2073.html
一般社団法人 日本飼料用米振興協会[j-fra]
事務局長の独り言
「日本生協連指導部時代の経験」から
________________________
数えてみたら、38年前の話。

日本生協連・指導部の職域生協担当だった時、「地域化しか生きる道はない」とまで言われていた職域生協。
エネルギー変換(石炭から石油・天然ガスへ) で隆盛を誇った炭鉱生協も次から次となくなり、地域生協が1970年代から大学生協出身者による市民生協が次から次と産まれてきた時代背景で、日本生協連の主力であった職域生協も数が激的に減少していた時代。
その後も更に減少しているようだ。
当時、日本生協連の中でもその存在を薄くしていた職域生協。
指導部に異動した新人が1年交代で職域生協の担当になっていたような時代だった。
私の前任が初めて2年間担当になった。
また、指導部で総合研究所(総研)に委託して検討した答申書は、「職域生協の地域化しか生きる道は無い」というもの。
言うなればその推進をせよというのが命題。
私は元来のへそ曲がり。
見込みが無いと言われれば可能性を探りたくなった。
そもそも総研の行った聞き取り相手はほとんどが職域生協不要論。
結論は自ずと明白だった。
そこで、私の前職が人事教育部人事教育課長だったこともあり、職域生協の担当者教育から始めた。
また、トップを集めた研修会も始めた。
更に、そんな職域生協も入り込むと様々な横のつながりがあることがわかった。
その中でも特に大きな組織として都県庁生協の協議会や市レベルの交流組織があった。
組織の構成員は職場の役職員。
また、当時は政府が消費税の前の売上税の計画を持っていたころで、その売上税を勉強するために職域生協の事業内容を徹底的に分析してみました。
そこで踏み込んで見ると、様々な活動を行っていた。
官庁や会社組織なりの福利厚生の物販や食堂、その他の取り組みなど様々だった。
ある面では、地域生協よりも様々何取り組みを行っていた。
食堂事業を担っている職域生協もあり、事業高も大きい。
言うなれば、地域生協の生鮮食品や冷凍食品売り場に匹敵する事業内容であった。
しかし、多くは近代化が遅れていた。
そこで、大学生協連、大学生協事業連の食堂事業の助けを頂き「食堂事業研究会」を立ち上げた。
千葉県庁生協では、県庁職組や県庁の影響力も大きく、経営改善の取組みを補佐することを始め、泊まり込みの勉強会も行った。
スズキ自動車本社工場食堂、
トヨタ自動車グループの食堂事業を担っていた刈谷生協、トヨタ発祥のトヨタ自動織機など様々な食堂事業の食材や料理法の改善、運営の改善、食堂のカフェテリア化などに力を注いだ。
その中でも一番大きなトヨタ生協が行っている冠婚葬祭事業に学び、浅草の葬儀会社とも、その主催する学習会などにも通った。

その時の話題。
アメリカ大使館員(日本人の稲葉さん)の講演を聞き、日本の高齢化社会と当時は80万人段階だった死亡者数が第一次団塊の世代の頃には200万人レベルになるなど葬儀マーケットは大きくなることを学び、同時に、葬儀の在り方にも変化が現れることを予測し、多くの職場の組合員を擁する職域生協の将来事業として注目しました。
次の資料はそんな36年も昔の話だが、日本の高齢化や団塊の世代の高齢化やその先に少子化などさまざまなことを学びました。
コロナ禍で促進された家庭葬、葬儀の規模縮小、墓じまいなどの今日を予測する様な事が起き始めた時代でもあったと改めて思います。

下記はその時の資料
トレンド情報(日本生協連・職域生協ニュース 掲載)
講演 『高齢化社会と「葬儀」マーケット』
1989年9月11日(月) 浅草ビューホテルにて
稲葉 厚 氏 (アメリカ大使館商務官)
資料をダウンロードができます。 word 版  pdf 版

フランクリン・ルーズベルト大統領(1932~40年 ニューディール政策の推進)が、今後の50年先にどんなものが出てくるかというアンケートをとった。
その中には、テレビ、プラスチック、ジェット機が予想されていない。
たかだか50年前でそんな状態である。
その意味で将来を予想するのは難しいものです。
しかし、必ず的中する予想があります。それは年齢です。
その意味で、葬儀業界の需要は予想がされるものです。
バトラーは次のように述べています。
人類の寿命が18歳から47歳に伸びるのに5千年かかった。
48歳から76歳になるのに85年しかかっていない。
5000年間÷(47-18) 歳= 5000÷29=172年間/1歳
85 年間÷(76-48)歳=85÷28=3年間/1歳
調べてみますと、50万年前の北京原人の寿命は平均13歳。
10万年前のネアンデルタール人は 平均14歳。
1歳伸びるのに実に40万年かかっている。
日本人は室町時代の平均寿命は17歳。
江戸時代は20歳
明治中期は、30歳、
大正時代は、40歳、
昭和20年代、50歳
織田信長で有名な人生50年というのは、元服をした後の人たちの寿命です。
つまり、この時代の赤子の死亡率が極めて高く、コロコロ死んでいる。
明治時代にコレラで37万人が亡くなったことがあります。
これは、日清、日露戦争の戦死者よりも多い。
現在(当時)の日本は、平均寿命が80歳代である。
今後、老人がどんどん増えてゆく。
私は、仕事上で良くアメリカに行きますが、ニューヨークの国連ビルにはおもしろいモノサシが表示してあります。
このモノサシは、65歳以上高齢者の割合が、7%から14%になるに要した年数を示しています。
( 26年間) 日本
( 45年間) 西ドイツ、イギリス
( 75年間) アメリカ
( 85年間) スエーデン
(165年間) フランス
さて、この様な知識をもとに、さらに、葬祭事業に関することに触れてみましょう。
現在の日本は、年間75万人が亡くなっております。
後、6年たちますと、90万人を越えます。
そして、2020年(30年後)には、165万人となります。

下記は若狹が加筆◆■◆■◆■◆
2019年の出生数は 86 万 4000 人、出生率(人口選対)は 7.0 と推計される。 死亡数は 137 万 6000 人、死亡率(人口千対)は 11.1 と推計される。
2020年の死亡数は、コロナ蔓延防止の結果、11年ぶりに国内の死亡数は前年を下回る可能性がある。
同統計の速報値によると、1~10月の死亡数は全国で113万2904人。前年同期は114万7219人で、1万4315人(1.2%)少ない。
死亡数が減少した原因は、同省が5カ月遅れで公表する死因別の死亡数(概数)で推測できる。死因とされた病名などのうち、公表済みの1~7月分で最も減少したのは、新型コロナや誤嚥(ごえん)性を除く肺炎で、前年より9137人(16.1%)減少し、4万7680人だった。インフルエンザは2289人(71.1%)減って932人にとどまった。
上記 2021年2月18日加筆
◆■◆■◆■◆加筆以上

この、165万人を越える状況というのは、『死』というものが日常性を帯びて参ります。
つまり、死がタブーではなく、オープンなものになることでしょう。
時代のキーワードになっているでしょう。
『死』というものが、オープンになるということは、『死』が恐い存在ではなくなるということであります。そのような状態が必ず来ると考えられます。
日経マネーという本で、邱永漢が次のように述べている文書が掲載されていました。
「私はいつ死ぬかを決めた。後12年だ。平均寿命の76歳から現在の65歳を差し引くと11年。それに1年おまけをして77歳までだ。」
冗談ということかも知れないが、このようなことがポピュラーに言える時代が確実に来ている。
元来、日本人は『死』を直視できない民族である。今後は自分の『死』を直視できる人たちが増えてくるでしょう。
このような時代においては、日本人は自分の墓、棺、骨壺(箱)を自分で決めるようになるでしょう。
ここで一つの事例があります。
ある中小企業社長の55歳の男性。
彼は、昔、借金をずいぶんした。なかには相当いわく有りげな金も借りました。
しかし、今は彼の会社は順調に発展をしているように思われていた。
ところが、ある時「身体がだるい」といって病院に行ったが、そのまま入院して2週間後にガンで死んでしまった。
その直後から、親戚や知人、あるいは、家族も知らない人、あるいは明らかにそれらしい人たちが押し寄せてきて、借金を返してもらっていないと言って来た。
それにより、残された家族にはなにも残らないばかりか借金が残ってしまった。
ここで、もし本人にガンであることと、もう残りわずかであることを伝えることができ、本人もそのことを受け入れることができたとしたら、展開はもう少し変化したかもしれない。
あるいは、彼が、自分の死ぬことが突然来るかも知れないことを想定し、それに対する準備をしていれば事態はもう少し変わったかも知れない。
さて、日本人は現在タブーである「死」を直視することが可能であろうか?
さて、皆さん、ここで、日本人は新しい環境に適応する能力に優れていることを理解していただきたい。
世界の国々は、農業が定着してから国が成立するまでに3,000~3,500年を経過している。
しかし、日本は、わずか600年である。
707年に「銅鍋」が日本で発見されてから、わずか、40年後の747年に当時の世界で一番大きな奈良の大仏を建立しています。
1543年に「鉄砲=種子島」が日本に渡来して、わずか40年後の1583年の織田信長の長篠の戦いで3,000丁の鉄砲が準備されていた。
当時のヨーロッパの一つの国で鉄砲が3,000丁も所有してところは存在しなかった。
ジーメンスが1880年に開発した電車が、京都で1890年に既に走っている。
このように日本人は対応力に優れており、この面から見て、「死」に対する対応力を発揮するであろう。
オイルショックは、日本の経済を壊滅させると言われました。
しかし、結果はその状況をも克服してしまった。
戦後、ドルは360円→308円→280円→220円→180円→150円→115円→(注)追記2024年4月現在154円前)と変化してきました。
私自身、日本の経済は220円が限界だと予想をしました 。
これは、当時の日本の製品生産コストとアメリカのコストを比較しての分岐点が220円だったためにそう考えたのですが、その後の展開は皆さんが御存じのように、徹底したコストの削減を実現し乗り切ってしまった 。
その後、内需、輸出、輸入のバランスをとって経済を引き続き発展させている。
現在、日本は5%の経済成長をしているが、この5%というのは韓国一国の経済に相当し、今急成長をしている韓国を新たに生み出しているのと同じ経済力です。
明治1年から現在まで日本は平均してNET3%の経済成長をしてきました。
世界的には、1%を10年続けたら大変なことである。
それが3%を100年続けてきたのである。
すさまじいの一語につきることです。
このまま、21世紀まで成長を続けたら大変なことになるでしょう。
現在、真夜中の12時に40万人が働いています。
この時間に使う電力消費料は昭和40年の真昼の消費料の4倍である。
しかし、この点はアメリカの1/2である。
話を骨壺、棺のマーケットの話に戻しましょう。
アメリカは、骨壺、棺を生前に予約することがポピュラーになっています。
しかし、これも単なる国情の違い、宗教の違いというだけではなく、そのようになるための教育がされてきたのです。
その教育とは次の三つです。
①Death Education死との対面教育(死に対しての心構え教育)
②Grief Education悲しみを乗り越える(そのためになすべきことを学ぶ)教育
③Pre-widow Education 連れ合いの死後の未亡人のあり方教育であります。

①のDeath Education は、自分の死んだ後のことを準備するための教育である。
日本では、自分の葬儀、あるいは生きているうちにそのことを話すことはタブー視している。
この教育が浸透していった暁には、葬儀をタブー視することによって成り立ってきた日本の葬儀業界は、その体質を変えていかないと、タブー視からオープン視する対抗力にかならず根ぎもっていかれるでしょう。
今までの新しい業態はどんなことから出てきたかをか考えてみると良くわかると思います。
警察に対する不信感、不充分感から警備保証会社。郵便、国鉄貨物、既存の運送会社の不便さ、不充分さから宅配便既存のものに対する不満感や不充分感から対抗力が発生する。

② Grief Education は、配偶者、子供の死に出合うことが一番悲しいという事実にたいしてそれを乗り越えていくことを教育していく。

③ Pre-widow Educationは、男と女の平均寿命の違い(男75歳、女81歳)を認識し、強い女はよいが、弱い女に対する男が生きている間に心構えを教育していく。

このような教育が施されていくと日常性のなかで「死」がテーマとなり、「死」に対する感性がみがかれる。
「死」をみつめることにより、「生」に対する価値に目覚める。
「死」に対してオシャレになる。
こんな「骨壺」、こんな「棺」といった欲求が深まるだろう。
「死」「死を告知する」「宗教」に対するタブーが、死亡者75万人から165万人になることにより、タブーではなくならざるを得なくなる。
「死」とは本当に恐いものか?
ここで私の経験話をいたします。
死にかけたというか、ほとんど死んだ経験といいますかそんなことです。
私が、20年前に大洋漁業にいた頃、香港のアバディーンにシーフードを食べに行くために車を運転していて、運転を誤りフィッシュポンド(養殖池)に落ちた。車の中に水が入ってきて呼吸が出来なくなってきた。
その時、意外と落ち着いたものであった。
車のなかで、なんとか外に出ようと窓の開閉用のハンドルを手さぐりで探したが見つからない。
そうしたら、このまま死んでしまうのかと思ったら、今までのことが走馬灯のように頭をかけめぐってきた。
その時、思ったことは「死」を恐いと思うよりも、「しまった!」ということであり、さらに、「残念だ!」ということであります。
そして、あまり動くと苦しくなると思い、おとなしくしたら、足元を水が流れているのを感じて、そっちの方に進むとドアが開いていて外に出ることが出来た。
「死」に対する「恐さ」より「残念だ!」という意識。
「生」をより充実しておきたかっという意識であり、それ以来、人生は一度だということで一念発起した。
大洋漁業を退社し、勉強をやり直し、その後は現在までの活動をしていますが、特に、福祉の問題とともに、「死」に対するタブーを除く教育に取り組んできた。
死後の世界はあるかという議論は昔からされてきた。
ゲーテは、「死」とは、落日みたいなものだ。
我々には見えなくなるが、向う側(来世)からは見える。と言っている。
パスカルは、「死後の世界はあるかどうか」は、賭みたいなものだ。
有ったとしたら困ると思うなら、準備をしておいたら良いだろう。
つまり、あると思った方が良いのではないか。
仏教においては「死」により来世への生まれ変わりが説かれる。
輪廻(リンネ)、車輪が回転して止まらないように、人間は前世、現世、来世の三世(サンゼ)に渡って「死」と「再生」を繰り返すというインド古来からの考え方。
往生(オウジョウ) 弥陀の極楽浄土に生まれること。
キリスト教においては、死によって永遠の命が与えられる。
死は最終の現象ではない。
一つの過程にすぎない。
このように、仏教であろうと、キリスト教であろうと「死」に対する考え方に共通性をもっていると思います。
しかし、キリスト教の国においては、大きな病院にはチャペルが有り、牧師(神父)がいて、医者、看護婦とともに患者を世話している。
日本において、宗教的にどうなるかは別にして、やがて、そのようなことが起きてくるのではないだろうか?

ホスピス:【語源的には、中世ヨーロッパにおいての修道院などの旅人用宿泊施設】 安楽死、自然死問題とも関連し、死期の遠くない患者を入院させ、延命医術を用いず、病苦をやわらげ、起床、面会を自由にし、慰安の工夫をした施設。
イギリスやアメリカには多く設けられてきたが、日本にも神戸市、愛知・静岡県内でスタートしているがまだまだ少ない。
アメリカ 1800ヵ所
イギリス 100ヵ所
日本 10ヵ所
一方、アメリカでは、最近の傾向としては、「死」を家で迎える人たちが増えてきている。
これは、アメリカの医療制度の性格にもよるところが大きい。
アメリカでは、医者は病院から独立しており、医者と病院は契約関係となっており、病人と医者との繋がりに、病院は設備と場所の提供という関係になっている。
つまり、医療費の47%を施設利用料となる現実である。医療費は22%である。
家庭をホスピス化するためのホームケアエージェンシーが出来ている。
日本の医療費は現在18兆円である。
通産省の予想では、1990年 22兆円、1995年 31兆円、2000年 42兆円。
アメリカでは、医療費が75兆円になってしまった。
その中で、医療保険の仕組みの中で、医者は不要、不急の手術を行うようになっている。
アメリカでは、年間 1500万件の手術が行われているが、450万件が不必要。
300万件が必要。
750万件がその中間だと言われている。
これは、日本の薬漬けと共通である。
このような事態にたいして、大きな考え方の変化が起きてきている。
1977年 ジョージ・マッカバン・レポートにより、『過去、300年間生命は地球より重いとの考え方から一分一秒永らえさせることが善だとしてきた。今後は、病気にならないようにすることが善である。』として、「適者生存、不適者不生存」の弱肉強食の考えが導入された。
一人一人が健康に気を配っていくことが安上がりの社会であるとする考え方に大きく変化してきた。
全体として、従来のものの見方や考え方が通用しなくなって来ている。
今日はここまでにしておきたいと思います、どうも、ありがとうございました。
以上
9月11日~12日に株式会社萩原の葬儀関係の展示会で業界関係者の啓蒙のために行いました講演会での講演を取材したものです。
株式会社萩原の好意のより掲載させていただきました。


下記はその時の資料
トレンド情報(日本生協連・職域生協ニュース 掲載)
講演 『高齢化社会と「葬儀」マーケット』
1989年9月11日(月) 浅草ビューホテルにて
稲葉 厚 氏 (アメリカ大使館商務官)
資料をダウンロードができます。 word 版  pdf 版

フランクリン・ルーズベルト大統領(1932~40年 ニューディール政策の推進)が、今後の50年先にどんなものが出てくるかというアンケートをとった。
その中には、テレビ、プラスチック、ジェット機が予想されていない。
たかだか50年前でそんな状態である。
その意味で将来を予想するのは難しいものです。
しかし、必ず的中する予想があります。それは年齢です。
その意味で、葬儀業界の需要は予想がされるものです。
バトラーは次のように述べています。
人類の寿命が18歳から47歳に伸びるのに5千年かかった。
48歳から76歳になるのに85年しかかっていない。
5000年間÷(47-18) 歳= 5000÷29=172年間/1歳
85 年間÷(76-48)歳=85÷28=3年間/1歳
調べてみますと、50万年前の北京原人の寿命は平均13歳。
10万年前のネアンデルタール人は 平均14歳。
1歳伸びるのに実に40万年かかっている。
日本人は室町時代の平均寿命は17歳。
江戸時代は20歳
明治中期は、30歳、
大正時代は、40歳、
昭和20年代、50歳
織田信長で有名な人生50年というのは、元服をした後の人たちの寿命です。
つまり、この時代の赤子の死亡率が極めて高く、コロコロ死んでいる。
明治時代にコレラで37万人が亡くなったことがあります。
これは、日清、日露戦争の戦死者よりも多い。
現在(当時)の日本は、平均寿命が80歳代である。
今後、老人がどんどん増えてゆく。
私は、仕事上で良くアメリカに行きますが、ニューヨークの国連ビルにはおもしろいモノサシが表示してあります。
このモノサシは、65歳以上高齢者の割合が、7%から14%になるに要した年数を示しています。
( 26年間) 日本
( 45年間) 西ドイツ、イギリス
( 75年間) アメリカ
( 85年間) スエーデン
(165年間) フランス
さて、この様な知識をもとに、さらに、葬祭事業に関することに触れてみましょう。
現在の日本は、年間75万人が亡くなっております。
後、6年たちますと、90万人を越えます。
そして、2020年(30年後)には、165万人となります。

下記は若狹が加筆◆■◆■◆■◆
2019年の出生数は 86 万 4000 人、出生率(人口選対)は 7.0 と推計される。 死亡数は 137 万 6000 人、死亡率(人口千対)は 11.1 と推計される。
2020年の死亡数は、コロナ蔓延防止の結果、11年ぶりに国内の死亡数は前年を下回る可能性がある。
同統計の速報値によると、1~10月の死亡数は全国で113万2904人。前年同期は114万7219人で、1万4315人(1.2%)少ない。
死亡数が減少した原因は、同省が5カ月遅れで公表する死因別の死亡数(概数)で推測できる。死因とされた病名などのうち、公表済みの1~7月分で最も減少したのは、新型コロナや誤嚥(ごえん)性を除く肺炎で、前年より9137人(16.1%)減少し、4万7680人だった。インフルエンザは2289人(71.1%)減って932人にとどまった。
上記 2021年2月18日加筆
◆■◆■◆■◆加筆以上

この、165万人を越える状況というのは、『死』というものが日常性を帯びて参ります。
つまり、死がタブーではなく、オープンなものになることでしょう。
時代のキーワードになっているでしょう。
『死』というものが、オープンになるということは、『死』が恐い存在ではなくなるということであります。そのような状態が必ず来ると考えられます。
日経マネーという本で、邱永漢が次のように述べている文書が掲載されていました。
「私はいつ死ぬかを決めた。後12年だ。平均寿命の76歳から現在の65歳を差し引くと11年。それに1年おまけをして77歳までだ。」
冗談ということかも知れないが、このようなことがポピュラーに言える時代が確実に来ている。
元来、日本人は『死』を直視できない民族である。今後は自分の『死』を直視できる人たちが増えてくるでしょう。
このような時代においては、日本人は自分の墓、棺、骨壺(箱)を自分で決めるようになるでしょう。
ここで一つの事例があります。
ある中小企業社長の55歳の男性。
彼は、昔、借金をずいぶんした。なかには相当いわく有りげな金も借りました。
しかし、今は彼の会社は順調に発展をしているように思われていた。
ところが、ある時「身体がだるい」といって病院に行ったが、そのまま入院して2週間後にガンで死んでしまった。
その直後から、親戚や知人、あるいは、家族も知らない人、あるいは明らかにそれらしい人たちが押し寄せてきて、借金を返してもらっていないと言って来た。
それにより、残された家族にはなにも残らないばかりか借金が残ってしまった。
ここで、もし本人にガンであることと、もう残りわずかであることを伝えることができ、本人もそのことを受け入れることができたとしたら、展開はもう少し変化したかもしれない。
あるいは、彼が、自分の死ぬことが突然来るかも知れないことを想定し、それに対する準備をしていれば事態はもう少し変わったかも知れない。
さて、日本人は現在タブーである「死」を直視することが可能であろうか?
さて、皆さん、ここで、日本人は新しい環境に適応する能力に優れていることを理解していただきたい。
世界の国々は、農業が定着してから国が成立するまでに3,000~3,500年を経過している。
しかし、日本は、わずか600年である。
707年に「銅鍋」が日本で発見されてから、わずか、40年後の747年に当時の世界で一番大きな奈良の大仏を建立しています。
1543年に「鉄砲=種子島」が日本に渡来して、わずか40年後の1583年の織田信長の長篠の戦いで3,000丁の鉄砲が準備されていた。
当時のヨーロッパの一つの国で鉄砲が3,000丁も所有してところは存在しなかった。
ジーメンスが1880年に開発した電車が、京都で1890年に既に走っている。
このように日本人は対応力に優れており、この面から見て、「死」に対する対応力を発揮するであろう。
オイルショックは、日本の経済を壊滅させると言われました。
しかし、結果はその状況をも克服してしまった。
戦後、ドルは360円→308円→280円→220円→180円→150円→115円→(注)追記2024年4月現在154円前)と変化してきました。
私自身、日本の経済は220円が限界だと予想をしました 。
これは、当時の日本の製品生産コストとアメリカのコストを比較しての分岐点が220円だったためにそう考えたのですが、その後の展開は皆さんが御存じのように、徹底したコストの削減を実現し乗り切ってしまった 。
その後、内需、輸出、輸入のバランスをとって経済を引き続き発展させている。
現在、日本は5%の経済成長をしているが、この5%というのは韓国一国の経済に相当し、今急成長をしている韓国を新たに生み出しているのと同じ経済力です。
明治1年から現在まで日本は平均してNET3%の経済成長をしてきました。
世界的には、1%を10年続けたら大変なことである。
それが3%を100年続けてきたのである。
すさまじいの一語につきることです。
このまま、21世紀まで成長を続けたら大変なことになるでしょう。
現在、真夜中の12時に40万人が働いています。
この時間に使う電力消費料は昭和40年の真昼の消費料の4倍である。
しかし、この点はアメリカの1/2である。
話を骨壺、棺のマーケットの話に戻しましょう。
アメリカは、骨壺、棺を生前に予約することがポピュラーになっています。
しかし、これも単なる国情の違い、宗教の違いというだけではなく、そのようになるための教育がされてきたのです。
その教育とは次の三つです。
①Death Education死との対面教育(死に対しての心構え教育)
②Grief Education悲しみを乗り越える(そのためになすべきことを学ぶ)教育
③Pre-widow Education 連れ合いの死後の未亡人のあり方教育であります。

①のDeath Education は、自分の死んだ後のことを準備するための教育である。
日本では、自分の葬儀、あるいは生きているうちにそのことを話すことはタブー視している。
この教育が浸透していった暁には、葬儀をタブー視することによって成り立ってきた日本の葬儀業界は、その体質を変えていかないと、タブー視からオープン視する対抗力にかならず根ぎもっていかれるでしょう。
今までの新しい業態はどんなことから出てきたかをか考えてみると良くわかると思います。
警察に対する不信感、不充分感から警備保証会社。郵便、国鉄貨物、既存の運送会社の不便さ、不充分さから宅配便既存のものに対する不満感や不充分感から対抗力が発生する。

② Grief Education は、配偶者、子供の死に出合うことが一番悲しいという事実にたいしてそれを乗り越えていくことを教育していく。

③ Pre-widow Educationは、男と女の平均寿命の違い(男75歳、女81歳)を認識し、強い女はよいが、弱い女に対する男が生きている間に心構えを教育していく。

このような教育が施されていくと日常性のなかで「死」がテーマとなり、「死」に対する感性がみがかれる。
「死」をみつめることにより、「生」に対する価値に目覚める。
「死」に対してオシャレになる。
こんな「骨壺」、こんな「棺」といった欲求が深まるだろう。
「死」「死を告知する」「宗教」に対するタブーが、死亡者75万人から165万人になることにより、タブーではなくならざるを得なくなる。
「死」とは本当に恐いものか?
ここで私の経験話をいたします。
死にかけたというか、ほとんど死んだ経験といいますかそんなことです。
私が、20年前に大洋漁業にいた頃、香港のアバディーンにシーフードを食べに行くために車を運転していて、運転を誤りフィッシュポンド(養殖池)に落ちた。車の中に水が入ってきて呼吸が出来なくなってきた。
その時、意外と落ち着いたものであった。
車のなかで、なんとか外に出ようと窓の開閉用のハンドルを手さぐりで探したが見つからない。
そうしたら、このまま死んでしまうのかと思ったら、今までのことが走馬灯のように頭をかけめぐってきた。
その時、思ったことは「死」を恐いと思うよりも、「しまった!」ということであり、さらに、「残念だ!」ということであります。
そして、あまり動くと苦しくなると思い、おとなしくしたら、足元を水が流れているのを感じて、そっちの方に進むとドアが開いていて外に出ることが出来た。
「死」に対する「恐さ」より「残念だ!」という意識。
「生」をより充実しておきたかっという意識であり、それ以来、人生は一度だということで一念発起した。
大洋漁業を退社し、勉強をやり直し、その後は現在までの活動をしていますが、特に、福祉の問題とともに、「死」に対するタブーを除く教育に取り組んできた。
死後の世界はあるかという議論は昔からされてきた。
ゲーテは、「死」とは、落日みたいなものだ。
我々には見えなくなるが、向う側(来世)からは見える。と言っている。
パスカルは、「死後の世界はあるかどうか」は、賭みたいなものだ。
有ったとしたら困ると思うなら、準備をしておいたら良いだろう。
つまり、あると思った方が良いのではないか。
仏教においては「死」により来世への生まれ変わりが説かれる。
輪廻(リンネ)、車輪が回転して止まらないように、人間は前世、現世、来世の三世(サンゼ)に渡って「死」と「再生」を繰り返すというインド古来からの考え方。
往生(オウジョウ) 弥陀の極楽浄土に生まれること。
キリスト教においては、死によって永遠の命が与えられる。
死は最終の現象ではない。
一つの過程にすぎない。
このように、仏教であろうと、キリスト教であろうと「死」に対する考え方に共通性をもっていると思います。
しかし、キリスト教の国においては、大きな病院にはチャペルが有り、牧師(神父)がいて、医者、看護婦とともに患者を世話している。
日本において、宗教的にどうなるかは別にして、やがて、そのようなことが起きてくるのではないだろうか?

ホスピス:【語源的には、中世ヨーロッパにおいての修道院などの旅人用宿泊施設】 安楽死、自然死問題とも関連し、死期の遠くない患者を入院させ、延命医術を用いず、病苦をやわらげ、起床、面会を自由にし、慰安の工夫をした施設。
イギリスやアメリカには多く設けられてきたが、日本にも神戸市、愛知・静岡県内でスタートしているがまだまだ少ない。
アメリカ 1800ヵ所
イギリス 100ヵ所
日本 10ヵ所
一方、アメリカでは、最近の傾向としては、「死」を家で迎える人たちが増えてきている。
これは、アメリカの医療制度の性格にもよるところが大きい。
アメリカでは、医者は病院から独立しており、医者と病院は契約関係となっており、病人と医者との繋がりに、病院は設備と場所の提供という関係になっている。
つまり、医療費の47%を施設利用料となる現実である。医療費は22%である。
家庭をホスピス化するためのホームケアエージェンシーが出来ている。
日本の医療費は現在18兆円である。
通産省の予想では、1990年 22兆円、1995年 31兆円、2000年 42兆円。
アメリカでは、医療費が75兆円になってしまった。
その中で、医療保険の仕組みの中で、医者は不要、不急の手術を行うようになっている。
アメリカでは、年間 1500万件の手術が行われているが、450万件が不必要。
300万件が必要。
750万件がその中間だと言われている。
これは、日本の薬漬けと共通である。
このような事態にたいして、大きな考え方の変化が起きてきている。
1977年 ジョージ・マッカバン・レポートにより、『過去、300年間生命は地球より重いとの考え方から一分一秒永らえさせることが善だとしてきた。今後は、病気にならないようにすることが善である。』として、「適者生存、不適者不生存」の弱肉強食の考えが導入された。
一人一人が健康に気を配っていくことが安上がりの社会であるとする考え方に大きく変化してきた。
全体として、従来のものの見方や考え方が通用しなくなって来ている。
今日はここまでにしておきたいと思います、どうも、ありがとうございました。
以上

9月11日~12日に株式会社萩原の葬儀関係の展示会で業界関係者の啓蒙のために行いました講演会での講演を取材したものです。
株式会社萩原の好意のより掲載させていただきました。

◆講演者
稲葉 厚 氏 (アメリカ大使館商務官)
◆講演者のプロフィール
昭和12年 静岡県伊東市生まれ
昭和36年北海道大学卒業後、大洋漁業入社
昭和39年 アメリカ国務省の全額支給奨学金を取得し、ハワイ大学大学院に留学。
昭和45年アメリカ国務省に入省
昭和55年アメリカ商務省に移籍
●在宅医療福祉協会顧問
●「ホームヘルスケア」を初めて日本に紹介し、主たる企業各社をアメリカに同行研修させ、入指導を行ってきた。
●著書:APPAレポートを中心に1000頁/25冊。

以上