| ◆ 1945年8月15日 中国で終戦。終戦直後から父が元北海道大学で農学部講師をしていた時代の中国からの留学生が中国八路軍にいた関係で、新中国建設の要請を受け、中国にとどまり、1953年に戦後の中国からの引揚げ事業(中国紅十字と日本赤十字の民間が外交による引揚事業)で日本に帰国する間、中国に留まった。満1歳未満で戦争終結となった若狹良治は、長春民主日本人小学校2年生の最後に、第二次引揚戦(興安丸)で日本に引き揚げた。この戦後の中国での思い出は、姉が書いた手記に詳しい。) 「若狹家の戦後直後、引揚げまでの歴史」ページに移動 |
◆事務局長の独り言
2025年10月 投稿を頂きました。
| 私が、1991年から日本生協連からコープかながわ(コープ電動車両開発㈱)に移籍し、電気トラック・LPGトラックへと取組みをしていた頃、知り合った朝日新聞の記者をしていた杉本裕明さんは、その後、定年退職後、NPO未来舎を立ち上げ、多くの取材を行い、多くの著作を仕上げています。 私と杉本さんの関係は、杉本さんがNPO未来舎を立ち上げる時、副理事長を引き受けてほしいと要請され、受諾して以来の再度のお付き合いをしています。 私は、飼料用米、杉本さんは環境問題。 普段のお付き合いは情報交換なのですが、先日は、半日、じっくりとお互いの取組みについて話しました。 その際、取材記者として、常にメモを取っておられましたが、別紙のような文書を作り、現在お付き合いのある情報誌に投稿をしたとのこと。掲載前の文書を頂きました。 |
| ★★自然環境を守る水田 岐路に立つ飼料用米 ― 主食用米高騰のあおりで存亡の危機 ― ★★ たっぷりと、水をたたえた青い水田が風に揺れる黄色く染まった水田――。 それは日本の源風景ともいえます。水田は、自然環境を保全する役目もあります。 長年の主食用の米の生産量が減るかわりに、豚やニワトリのエサに使う飼料用米は、水田の減少を防ぐ役目も果たしてきました。 ところが最近、米づくりの環境が大きく変わり、岐路に立たされています。 主食用の米が高騰し、値段の安い飼料米の栽培から主食用の米栽培に切り替える動きが高まっています。 「国内自給率を高めようとしてきたのに、逆戻りでは」と懸念の声が出ています。 飼料用米普及の活動をしてきた一般社団法人日本飼料用米振興協会(海老沢恵子理事長)の若狭良治 事務局長に話を聞きました。 ジャーナリスト 杉本裕明 |
| ●生産者と利用業社、研究者、市民で結成した協会 ―― 振興協会はどんな活動をしている団体ですか。 「これまで関係のなかった稲作農業と畜産業がお互いに連携して農業振興に取り組むことや、食料と飼料の自給率の向上を目指し、農家や飼料メーカー、米の卸売業者、生活協同組合、農業研究者など、関心を持つ人たち集まって発足しました。異常気象や飼料価格が高騰した2008年に、消費者と生産者20人が呼びかけ、学習会を開催したのがきっかけです。私もその呼びかけ人の一人でした。任意団体の「超多収穫米普及連絡会」を発足し、2014年に一般社団法人になりました」 ―― 若狭さんは、生活協同組合連合会の職員として低公害車の開発と普及に長年取り組んできた人ですね。 「コープかながわの関連会社の代表取締役となり、電気自動車の配送車の開発を手がけました。次にディーゼルトラックに比べて黒煙や窒素酸化物の少ないLPGに注目し、配送車をメーカーと共同開発し、全国の生協に普及させました。これまでに8000台のLPG配送車を走らせました。退職後、同じように環境にかかわる仕事をしたいと、この農業の世界に飛び込みました」 ●水田は環境に優しい ―― ボランティアで、10年以上会の運営を担っています。水田の環境面での貢献が見直されていますね。 「水田による稲作は日本の気候や国土に合った農業です。水田と、水路、水を供給する溜め池には豊富な生物が生息し、豊かな自然を保っています。洪水になれば、川の洪水を受け入れ、下流の氾濫を防ぐ役割もありました。農薬使用など課題もありますが、環境保全型の産業なのです。その水田が減少している。飼料用米は、自給率を高めることとともに、減り続ける水田を守る意味もあるのです」 ―― どのような取り組みをしてこられたのですか。 「毎年さまざまな場で、テーマを扱った集会を開き、意見交換したり、見学会をしたりしています。その中に、超多収穫米普及連絡会をつくり、収穫量の多い多収米の栽培を増やそうとしています。農水省が多収米を増やそうと始めた、日本一を競うコンテストの事務局にもなっています。研究者の研究成果を取り入れ、多収米の普及促進と消費者などへの普及啓発活動もしています。もちろん、農水省への政策提案も行っています」 ―― 飼料米だけでなく、いま、農業全体が大変な状況ですね。気候変動の影響が大きい。 「日本にとどまらず、世界各地で最高気温の更新、大雨、竜巻など、これまで経験したことのない異常気象が起きています。ロシアとウクライナの戦争や、イスラエルによるガザ地区への侵攻など、国際情勢も不安定です。囲内に目を向けると、連日の猛暑で、米に限らず、農作物や畜産物の生産に幅広く被害が生じています」 ●配合飼料に混ぜて使うことが多い ―― 飼料用米はどんなふうに使われているのですか。 「水田を生かしながら、豚やニワトリ、牛など家畜のエサとなります。輸入されるトウモロコシとほぼ同等の栄養価があり、トウモロコシの代替原料です。飼料用米は主食用米と比べ、タンパク質が多い。味は少し落ちるとも言われています。そのまま家畜に与える方法と、輸入トウモロコシから造る配合飼料に混ぜる方法があり、多くが後者です」 ―― 面積当たり、たくさんの米がとれる多収米の栽培に力を入れていると聞きました。 「先のコンテストもその一環です。国の研究機関や民間会社が多収米を開発しています。コシヒカリやササニシキといった主食用の米は10アール当たり500数十キロぐらいの玄米がとれるとされています。多収米は、例えば『北陸193号』は780キロ、『タカナリ』は751キロ、『もちだわら』は792キロといった具合です。農水省は主食用、飼料用に区別せず、米の生産量の多い品種である多収性品種を栽培する場合、10アール当たり最大10.5万円の交付金を農家に出し、奨励しています」 ●食肉や卵のブランド化にも貢献 ―― 飼料用米で育てと豚の肉やニワトリの卵は一部、ブランド化していますね。 「輸入頼りの飼料自給率の向上につながるだけ、商品のブランド化にもなります。例えば、生活クラブ生協は、山形県の平田牧場と契約し、飼料異様米も使って育てた豚を『日本の米育ち 平田牧場三元豚』、東都生協は、飼料用米を15%、精米を3%使って育てた豚を『めぐみ米豚』のブランドで販売していますね」 ――飼料用米の普及は農水省だけでなく、普及協会の会員など、生産者と利用業社などの自主努力によるものと聞いています。 「生産の本格化が始まったのは2008年です。農水省の『飼料用米導入定着化緊急対策事業』として全国49ヵ所で「飼料用米利活用モデル実証実験がスタートしました。その前には、生活クラブ連合会が中心となって山形県で「飼料用米プロジェクト」を始めています。日本生活協同組合連合会(生協) の提携生産者である(樹平田牧場(養豚)とJA庄内みどり遊佐支店、遊佐町、山形大学、生協などが連携し、2004年から「自給率向上のモデルをつくる」をスローガンに掲げ、飼料用米の作付け拡大に取り組んでいました」 ―― ところが、飼料用米の生産量が最近、激減しています。 「2024年の採算量は52万トンでした。水田の面積は9万8000ヘクタールです。その年の主食用の米の生産量は679万トンですから、1割弱です。実は2023年は、71万7000トン(13万3000ヘクタール)、2022年に至っては過去最高の80万3000トン(14万2000ヘクタール)だったのです」 ●主食用米高騰のあおり受けて激減 ――原因はどこにあるのでしょうか。 「主食用の米の高騰です。生産量と面積の経年変化を示したグラフを見ると、よくわかると思うのですが、一本調子で増えていないことがわかるでしょう。大きく三つの山があります。一つは2011から2012、二つ目が2015~2015年、三つ目が2022年です。いずれも前年に食用米の米価が下落したことにより、作付け転換で飼料用米へシフトしたのです。これは飼料用米が米価維持のための手段として選択されたためでもあります」 ――一 種の調整弁。大企業が非正規の労働者を雇用し、不況になると切り、景気が回復するとまた、雇用するといった具合に。不安定ですね。 「2022年に80万トンを記録し、政府が食料・農業・農村基本計画で定めた2030年度の目標値(面積9,7万ha、生産量70万トン)を超えてしまったのです。この背景には、前年に主食用米の需給環境が悪化して過剰在庫となり、米価が低迷したことがありました。さらに、コロナ禍が明けた後、外食需要の回復やインバウンド需要の拡大で一挙に米不足が顕在化し、2024年8月頃から令和の米騒動が勃発、集荷業者などの買い付け競争が激化し、米価は急騰しました。これが2024年の激減の要因です」 ●財務省の指摘受け、交付金削減の動きも ―― 農家が高く売れる方を選択するのは仕方がない面もありますが、こんな不安定なことでは、飼料用米を使う側はたまりませんね。 「もっと悪い数字があります。2025年の作付け意向調査によると、主食用米の増産が見込まれる一方で、飼料用米の生産は半分になるのではないかと言われています。それなのに農水省は、飼料用米生産への補助金を引き下げる意向を示しています。財務省から「いつまで飼料用米に助成をするのか」と、飼料用米への助成に後ろ向きなのが背景にあるといわれています。 ―― 飼料用米の利用を進めてきた畜産業界はハシゴを外されたら困りますね。 「飼料用穀物を自国で生産・利用することが、畜産業の本来の姿でしょう。農水省もこれまで交付金を出して応援してきました。『戦略作物』(食料自給率を上げることや食料安全保障の観点からついた)の一つとして、交付金制度を採用してきたのです」 ―― いま、政府は米の増産に舵を切る方針を表明していますね。 「私の周囲では、『食用米の大幅な大増産が、相場の大暴落を招くのでは』という声が出ています。財務省から『米生産過剰が改善されず、食用米の飼料用米転換が阻害している』と言われ、飼料用米の生産削減に走るなら、生産者の飼料用米からの撤退が促進され、これまでの効果もなくなってしまいます。今年の生産量は昨年をかなり上回りそうですが、いったん作付けをやめた水田は簡単には戻りません。しかし、飼料用米をつくっていた水田を主食用に変えればそのまま使えます。増産の見込みというのは、実は、その大半が飼料用米からの転換によってもたらされるものなのです」 ●飼料用米の価値を認め、普及させよう ――そんなカラクリがあったのですね。 「米生産農家も困惑、飼料用米を利用してきた畜産事業者も困惑といった現状ではないでしょうか。異常気象の多発や不透明な国際情勢が続くこのような時代こそ、しっかりと国土を固め、未来に向けて歩まなくてはなりません。飼料用米の価値を認め、普及させる。そんな政策を期待したいと思います」 〈参考文献〉 1)日本飼料用米振興協会ホームページ“飼料用米普及のためのシンボジウム総合案内(2008~2025)”. https:l/x.gd/gXeUh 2 )農水省ホームページ新規需要米等の用途別認定状況の推移(平成22年産~令和6年産) (計画ベース)”. https://www.maff.go.jp/j/seisan/jyukyu/komeseisaku/ attach/ pdflkakou_shinki-49.pdf 3)農水省ホームペーシ、”米に関するマンスリーレポート(令和7年8月) 「米に関する相対取引価格と民間在庫量」”. https:l/www.maff.go.jp/j/seisan/keikaku/soukatu/attach/pdflmr-984.pdf) 4)農水省ホームページ“食料・農業・農村政策審議会食糧部会資料(令和6年3月5日開催) I参考文献7 米をめぐる状況について」”https://www.maff.go.jp/j/councillseisaku/syokuryol240305/attach/pdfl240305-86.pdf |
| 私の履歴書(プロフィール) 若狭 良治(わかさ りょうじ) 1944 年,満州国哈爾浜市南高崗区長官公署街(現在の黒竜江省哈爾浜市:ハルピン市)に生まれた。 ◆ 1945年8月15日 中国で終戦。終戦直後から父が元北海道大学で農学部講師をしていた時代の中国からの留学生が中国八路軍にいた関係で、新中国建設の要請を受け、中国にとどまり、1953年に戦後の中国からの引揚げ事業(中国紅十字と日本赤十字の民間が外交による引揚事業)で日本に帰国する間、中国に留まった。満1歳未満で戦争終結となった若狹良治は、長春民主日本人小学校2年生の最後に、第二次引揚戦(興安丸)で日本に引き揚げた。この戦後の中国での思い出は、姉が書いた手記に詳しい。) 「若狹家の戦後直後、引揚げまでの歴史」ページに移動 戦後中国東北地域を転々とし、最終地は長春市。 ■小学校は、5校を転向しました。 1951年4月 ~1953年3月 ⓵ 長春民主日本人小学校(民日小)2年目終了時に日本に帰国 1953年 第2次引揚船興安丸にて日本(舞鶴)へ。 【興安丸】のこと。 1950年7月~1953年(昭和28年)4月の朝鮮戦争時にはアメリカ軍に傭船され佐世保市-釜山の国連軍輸送に就航し、朝鮮戦争終結後は政府の傭船により中華人民共和国の河北省秦皇島-舞鶴間、ソビエト連邦(現ロシア)ナホトカ・ホルムスク-舞鶴の引き揚げ船として日本赤十字社の救護班を乗せて1957年(昭和32年)に至るまで延べ22回の活躍し、舞鶴港の「岸壁の母」の悲話で国民の胸を打った。 1953/4 ~1953/7 ⓶ 札幌市上白石小学校(3年)、 1953/9 ~1954/3 ⓷ 京都市吉祥院小学校(3年、 1954/4 ~1955/7 ④ 北海道美幌町立美幌小学校(4年~5年)、 1955/9 ~1957/3 ⓹ 札幌市立豊水小学校(5年~6年) 1957年4月 ~1960年3月,札幌市立中島中学校 1964年4月 ~1969 年3月,北海道大学(教養1.5年、農学部畜産学科、畜産食品学講座3.5年) 1969 年3月、日本生協連・北海道支所勤務。 (1991年7月まで、22年間勤務) 1971 年4月~8月、室蘭中央生協出向 高砂支店長 1971 年9月~1974年6月、北海道支所商品企画担当 (瓶缶、粉製品、塩干、生鮮担当) 1974 年7月~1980年3月、日本生協連事業部商品企画担当 (塩干、生鮮、水産)を経て, 1980 年4月~1983年3月、同生鮮課長。 1983 年4月~1986年3月、総務部人事教育課長~人事教育部人事教育課長 (3年間) 1986 年3月~1991年3月、指導部指導担当(職域生協担当)(5年間) この間、経営指導、職域食堂事業改善、冠婚葬祭事業提案と指導、職域生協役割の再認識活動等 1991 年3月~同年6月、日本生協連中央地連事務局次長(組織課長) 環境問題に触れた時期 (4か月間) 1991 年7 月、コープかながわへ移籍 コープ電動車両開発㈱業務部長 (1991年~2006年、16年間勤務) 1994 年6 月、社名変更 コープ低公害車開発株式会社、代表取締役専務 1996 年11 月、神奈川県よりコープ低公害車開発㈱が「かながわ地球環境賞」を受賞 1998 年6 月、神奈川県の推薦で環境庁よりコープ低公害車開発㈱が「地域環境保全功労賞」を受賞 2006 年3 月20 日、コープ低公害車開発株式会社 閉鎖 役員退任 2006 年3 月21 日~9 月20 日、コープ低公害車開発株式会社 清算人非常勤 2006 年3 月15 日、任意団体:DME自動車普及推進委員会 設立 事務局長 就任 2006 年3 月21 日、株式会社北海道自然エネルギー研究センター(NERC) 取締役/東京支所長 (2007年7月 任意団体 超多収穫米普及連絡会 発起人、運営委員) 平行就業 2010 年4月1 日、一般社団法人 DME自動車普及推進委員会を組織変更 理事・事務局長 2012 年6 月30 日、株式会社NERC退任、 2012 年6 月30 日、一般社団法人DME自動車&バイオDME普及推進委員会 退任 2007年7月 任意団体 超多収穫米普及連絡会 発起人、運営委員 2014年3月31日 解散、下記に統合 2014年4月 一般社団法人 日本飼料用米振興協会 設立 監事/2015年5月25日退任 2015年5月25日~ 一般社団法人 日本飼料用米振興協会 理事・事務局長(現在) 2014年5月~ 特定非営利活動法人未来舎 副理事長(現在) 著書 おいしい魚をさがす~体験的魚流通論~ 日本生協連「シリーズ・くらしの豊かさを求めて」 連合出版 学会 公益社団法人 自動車技術会 正会員 9508448(現在 退会) 論文等 多数 論文等執筆 ”LPG燃料エンジンシステムの研究開発動向”, 後藤新一,若狭良治,イ・ディヨブ,自動車技術,Vol55,5,pp.30-37,2001.5. 02) ”エンジンのアイドリングストップに関する研究”, 1999.10.16 是松孝治(工学院大学教授),田中一弘・山崎慶嗣・雑賀高(工学院大学)若狭良治(コープ低公害車開発).(社)日本機械学会・講演会, 03)”LPG自動車の開発動向” 若狭良治.㈱シーエムシー「新エネルギー自動車の開発と材料・第4編第5章」,2001.8 04)”環境を守るための 自然エネルギー読本「車社会のエネルギー消費と環境汚染」” 2002.8 若狭良治.環境を守るための自然エネルギー読本編集委員会 北海道愛別高等学校内(北海道上川郡愛別庁南町27 東洋書店 05)”エネルギー使用14%削減への挑戦-創・活・省エネルギーへの道- 「省エネをもたらす交通政策」” 2003.1 若狭良治.NPO法人クリーンエネルギーフォーラム 沢孝一郎、大嶋茂男 他 交文社印刷所 06) ”日本DMEフォーラム 利用技術分科会 平成15年度活動報告書 自動車燃料としてのDMEの普及シナリオ」(2005.9.26) 若狭良治 日本DMEフォーラム 2004.3 07)”最新環境負荷低減の技術とシステム”-環境調和型産業をめざして- テラメカニクスと環境問題委員会 「何が問題であって、何を対策するのか?」 若狭良治.テラミクス研究会(立命館大学理工学部建設環境系内 2002.9 08) ”新燃料(DME・GTL軽油)エンジンシステムの研究開発”,後藤新一,若狭良治,小熊光晴,木下幸一,自動車技術会,Vol57,2,pp.77-84,2003.2 09)”2003 International Forum on DME in Shanghai 2003.10.23 ・上海・上海交通大学 「Challenge to low emission vehicles by customers 」 10)”世界におけるLPG大型バスの普及状況” 若狭良治,飯田訓正,自動車技術会,Vol58,11,pp.60-65,2005.11 11)”DME自動車用燃料供給インフラシステムの研究開発(20055333)” 若狭良治,塚原裕展,大塚寿,高田和夫,竹内真之,木下幸一,後藤新一,鈴木信市,自動車技術会,春季大会報告,2005.5 12)”中型DMEトラックの実用化研究開発(20055332)” 後藤新一,小熊光晴,若狭良治,林宏優,鈴木信市 自動車技術会 春季大会報告,2005.5 13)”国際DME会議(DMEⅠ)パリ・Hotle Sofitel 2004.10.12-14 「Path to the introduction of commercial DME vehicle by CO-OP」” 若狭良治 IDA:International DME Asociation First International DME Conference 14)”第2回 アジアDME会議(ADMEⅡ)上海・上海交通大学 2005.9.18-20 「Path to the introduction of commercial DME vehicle by CO-OP」 若狭良治 Proceedings of 2nd ASIA DME Conference By China DME Asociation 15)”DMEハンドブック 「DME自動車構造取扱基準」「自動車用燃料充填DMEステーション」 若狭良治 日本DMEフォーラム 2006.4 16)”自動車技術会年鑑(6)「その他の動力」 後藤新一,小熊光晴,塩谷 仁,辻村 拓,冨田由紀夫, 若狭良治 2006.8 Vol.60 17)”DME Hand Book(英文版) 「Technical standards for DME vehicles 」「Filling station for DME vehicle」” 若狭良治 日本DMEフォーラム 2007.11 Ⓒ2006 Japan DME Forum 18)”平成17年度 石油産業体制等調査研究事業 報告書「DME自動車構造取扱基準(自主検討案)」 若狭良治 有限責任中間法人DME普及促進センター 2006.3 19)” 平成17年度 石油産業体制等調査研究事業 報告書「海外におけるDME自動車の開発状況調査及び保安対策並びに保安法規に関する調査」 若狭良治 有限責任中間法人DME普及促進センター 2006.3 20)”日本DMEフォーラム 利用技術分科会 平成17年度活動報告書 「自動車用DME充填スタンドの研究」(2005.5.28) 若狭良治 日本DMEフォーラム 2006.3 21) ”日本DMEフォーラム 利用技術分科会 平成18年度活動報告書 DME自動車普及推進委員会の活動紹介(役割と課題)」(2006.8.1) 若狭良治 日本DMEフォーラム 2007.3 22)”DME自動車普及推進委員会 平成18年度成果報告書「DME自動車用インフラ整備に関する考察」 (2007.3) 若狭良治 23)”DME自動車普及推進委員会 平成18年度成果報告書 「DME自動車をめぐる動き」(2007.3) 若狭良治 24)” DME自動車普及推進委員会 平成18年度成果報告書 「DMEインフラ普及に向けた調査」(2007.3) 若狭良治 25)”DMEを取り巻く状況変化とわが国におけるその普及の試み「上海ショック!!上海万博をクリーン燃料DMEバスで大気汚染の改善とエネルギー確保を図る” 若狭良治 石油天然ガスレビュー 2007.5 Vol.41 No.3 独立行政法人石油天然ガス・金属鉱物資源機構 26)日本におけるDME自動車普及推進の活動と日中におけるDME自動車実現のために その1~4 燃料を巡る話(私の体験記を含めて) 若狹良治 天然ガス鉱業会「天然ガス2008年3号、4号、5号、6号」 27)「DME自動車普及のシナリオ」 天然ガス鉱業会「天然ガス2008年3号以降」4年間、執筆。 28)日刊自動車新聞 車笛欄 平成19年1月号以来、毎月1回 連載を5年間にわたり行った。 29)物流ニッポン「新たなトラック燃料の可能性 (上)(下)」2014年10月23日,27日 |
| 故郷・思い出2019/03/0305:00 5 0 この記事は2008年2月19日に公開された記事の再掲載です。下のコメントも合わせてお読みください。 若狭くんよりレポートが届きました。 戦前から戦後にかけてのご家族の事が詳細に書かれており、貴重なお写真も寄せていただきました。同期生の皆さんも生まれた頃はどんな時代だったか、想像しながらじっくりとお読みください。 (北海道立札幌南高等学校 第13期 同窓会ホームページ編集部記) ◆若狹良治 記 戦前、昭和天皇が札幌に行幸しての昭和の大演習(昭和11年10月、北海道を舞台に行われた陸軍特別大演習)があった際に、父の先妻の長女の陽子が心臓弁膜症の発作を夜半に起こしたが戒厳令下で外出禁止のために、病院に連れて行けずに亡くなったという。 北海道大学農学部農芸化学の講師であった父が日本から別天地に行きたいと教授にお願いしたことから、当時の満州に行くことになったという。 満日亜麻紡績股份有限公司に就職し、その後、満日亜麻紡績株式会社の常務取締役・工場長となった。終戦までその任にあったが、敗戦とともに戦争犯罪人として追われる立場になったが、任期中、中国人を日本人と区別せずに使用し、また、捕虜に対しては国際捕虜規定で遇したという。 そのことからか、戦後、中国人の部下たちが一家をかくまってくれたという。 その前後では、父が持っていた青酸カリで一家全員の自殺を話し合ったが、次女の明子の「私は死ぬのは嫌だ」という言葉で、生き残る決断をしたという。 中国各地を転々する中で、中国共産党が国家統一をしたところから、八路軍にいた昔の大学での教え子に出会い、新中国の建設への協力を依頼されたという。 姉が晩年の父から聞いたことでは「寒さをしのぎ、寝袋で新中国への情熱を語ってくれたことが、一番感激した」という。 私は、昭和19年、ハルピン市(黒竜江省)に生まれ、各地を転々として、小学校に入る前に、長春市(吉林省 戦前の新京市:満州国の首都)に移り、残留日本人が中国政府の援助を受けて創立した「長春民主日本人小学校」(略称:民日小:6年間だけ存在した日本人小学校)に入学しました。) 小学校には4つ上の兄も入学。すぐ上の姉たちは中国人の寄宿制の高等中学校に行っていました。 父は、戦前、中国に赴任する前は、北海道大学農学部講師やその後、日本の繊維会社の満州の関連会社(満日亜麻紡績股份有限公司)の常務取締役(現地責任者:専務取締役・代表取締役社長は日本在住)で終戦を迎え、戦後、長春市にある東北科学院で研究職に従事していました。 日本人の学校は、当時の中国共産党政府の周恩来が、日本人は、日本に帰って日本の建設をしなければならないという発言がもとになったというようなことを聞いたことがある。 昭和28年の正月明けに、突然、学校で「あなたたち日本に帰れるよ」と言われました。 最初はもっと遅くなるとのことでしたが、中国奥地からの帰国予定者たちが遅くなるので繰り上がったということでした。 日本への帰国旅(帰国というよりは、来日・訪日だが) 長春から汽車で、先ず瀋陽市に行き、3日ほどいて、その後、秦皇島に一週間ほど生活しました。 秦皇島は山海関のすぐ近くで、万里の長城の東端です。 瀋陽から夜行に乗り、朝目覚めると親父が配給で貰ったカルパス(ソーセージ)を食べていました。 外を見ると万里の長城が西方の山々に向かって連なっているのが目えました。 秦皇島の宿泊所は、きれいで、その間は、毎日おいしい白いコメのご飯を食べられたことが夢のようでした。 もちろん、長春にいた時でも米は食べられたのですが、ともすれば、古々米のような臭いのついた米を良く食べる機会がありました。 姉が買ってきた米がそんな米だったのですが、父はこうしたら食べられると言って、ご飯に濃いお汁をかけて食べ、みんな黙って真似をしました。 昭和28年3月に中国からの引き上げで舞鶴港の興安丸の船内で京都新聞の記者が撮ってくれた写真です。社会面の真ん中に「全員で帰った若狭さん一家」ということで、このことが話題になるような時代背景であったわけです。 真ん中の一番小さいのが小学校2年最後の私です。着ているのは人民服、帽子はレーニン帽といういでたち。 帽子についているのは、京都新聞の記者に貰った桜の花です。 私は、トウモロコシのお粥の配給を受けるのに、どんぶりを持って並び、家族から一番好きは、「ポーミー(トウモロコシ)のお粥」というようなことで、戦前の豊かな時代を知らないことが幸いであったようです。 その意味では、お米はぜいたく品でした。 でも、高粱(こうりゃん)のご飯は好きになれませんでした。 そのために、ジャガイモが大好きでした。いまでも、ジャガイモが好きです。 日本へ出発する前日、長春の科学研究所で盛大な送別会を開いてくれました。おいしい白米のご飯がたべ放題。どんぶり飯を5杯も食べ、おなかを壊し、秦皇島につくまで腹下し状態でした。 (若狹良治 札幌南高校 昭和38年3月卒業時:3年7組) |

目次
- 1994年5月23日 日刊自動車新聞 本紙創刊65周年記念 特集「車の元気学」(特別編)「21世紀の自動車を考える」
- 1994年5月23日 日刊自動車新聞 特集「車の元気学」(特別編)
- 札幌市立中島中学校
- 北海道立札幌南高等学校
- 電気トラック(EV)、LPG、DME自動車の取組活動
- 生協流通新聞 第46号(アドバンクセンター) 1994年4月5日
- 1998年6月6日 朝日新聞 朝刊 ひと欄若狭良治 低公害車の普及で表彰「コープ」で指揮をとる(ひと)
- こぼれ話 月刊誌:CO-OP・EV プログレス 2005年6月1日
- 人ひと 生協流通新聞「低公害車」を普及促進 若狭 良治 2006年2月20日 (月) 第302号
- 2006年(平成18年) 10 月17日(火曜日) 読売新聞【彩の人】 「次世代燃料DMEを使う自動車の普及に取り組む」
- 日本生活協同組合連合会から1991年7月に「コープかながわ」に移籍。コープ電動車両開発㈱、コープ低公害車開発㈱で16年間にわたり活動しました。2006年3月21日から㈱NERC(ネルク)に移籍。併せて、任意団体「DME自動車普及促進委員会」の事務局長として、NERC東京支所・支所長を兼務する形で活動を始めました。
- 2009年1月3日 朝日新聞縦割り打破!エコトラック業界を束ねて低公害車を開発若狭 良治さん (65)
- DMEトラックの実用へ向けての活動を改めてみる「主観か?客観か!?」DME自動車普及推進委員会事務局長・若狭良治
- 日刊自動車新聞紙上教育講座を開講【2006年】店長のためのマネジメント基礎講座 PDF
- 新たなトラック燃料の可能性 (上)・下有志生協が株式会社創設 未来舎副理事長 若狭 良治
- コープ低公害車開発、LPガストラック導入2000台達成
- 参考資料JDAについて 一般社団法人 日本DME協会 (japan-dme.or.jp)
1994年5月23日 日刊自動車新聞 本紙創刊65周年記念
特集「車の元気学」(特別編)「21世紀の自動車を考える」

1994年5月23日 日刊自動車新聞 特集「車の元気学」(特別編)
【クルマの元気学】(特別編)
「21世紀の自動車を考える」
1994年5月23日(月) 日刊自動車新聞
【全世界で10人に1台の割合で車が持てることを目標に】
【環境や資源エネルギー問題は人間の知恵を集めればなんとかなる】
自動車と社会との正しい共存を
土砂降りの国内販売不振、強まる外国メーカーの圧力と品質面での追い上げ。
ふと振り返ると、日本車はいったいどこに行くんだろうかと、不安がよぎる。
頂点に立ったことで、後は下り坂を転げ落ちるだけなのかどうか。
しかし、まだまだ日本車に対するニーズや要求は多く、発展の余地は残されている。
すると頂点に立ったという思いは、市場やユーザーとのボタンのかけ違いだったのか。
2十1世紀に日本車を文化とし根づかせるためのあり方はいかに。
まほろば薫さん、平尾收さん、若狭良治さんのお3方に話を聞いた。
日頃、「未来カー研究会」という集まりを持ち、様々な論議を戦わせている。
結論からいうと、今の日本の自動車産業は考える方向を間違っているのかもしれない。





| 日本生協連の生鮮時代に活動を共にした当時の東京南部市民生協の商品担当(遠藤和夫さん)が、東都生協に移籍し、常務理事だった時代に多収穫米の必要性を説かれ、DME自動車普及推進委員会の事務局長時代に、多収穫米=飼料用米への取組みのきっかけとなった取り組みに参画した。 |
| プロフィール 1944年,中国ハルビン生まれ。 1953年 第2次引揚船興安丸にて日本へ。 【興安丸】のこと。 1950年7月~1953年(昭和28年)4月の朝鮮戦争時にはアメリカ軍に傭船され佐世保市-釜山の国連軍輸送に就航し、朝鮮戦争終結後は政府の傭船により中華人民共和国の河北省秦皇島-舞鶴間、ソビエト連邦(現ロシア)ナホトカ・ホルムスク-舞鶴の引き揚げ船として日本赤十字社の救護班を乗せて1957年(昭和32年)に至るまで延べ22回の活躍し、舞鶴港の「岸壁の母」の悲話で国民の胸を打った。 1969年,北海道大学農学部畜産学科卒業,日本生協連北海道支所勤務。 1971年,室蘭中央生協出向 高砂支店長 1971年,北海道支所商品企画担当(瓶缶、粉製品、塩干、生鮮担当) 1974年、日本生協連事業部商品企画担当(塩干、生鮮、水産) 1980年、同生鮮課長。 1983年、総務部人事教育課長~人事教育部人事教育課長 1986年、指導部指導担当(職域生協担当) 1991年、日本生協連中央地連事務局次長(組織課長) 1991年7月、コープかながわへ移籍、コープ電動車両開発㈱ 業務部長 1994年5月23日(月) 日刊自動車新聞 創刊65周年記念号に活動紹介 【クルマの元気学】(特別編) 「21世紀の自動車を考える」 注:社名変更前 1994年6月、社名変更 コープ低公害車開発株式会社 1996年11月、コープ低公害車開発㈱が神奈川県より「かながわ地球環境賞」を受賞 1998年6月、神奈川県の推薦でコープ低公害車開発㈱が環境庁より「地域環境保全功労賞」を受賞 2006年3月20日、コープ低公害車開発株式会社 閉鎖 役員退任 2006年3月21日~9月20日、コープ低公害車開発株式会社 清算人非常勤 2006年3月15日、DME自動車普及推進委員会 設立 事務局長 就任 2006年3月21日、株式会社 北海道自然エネルギー研究センター(NERC) 取締役/東京支所長 2010年4月1日、一般社団法人DME自動車普及推進委員会を組織変更 理事事務局長 2012年6月30日、株式会社NERC退任、 一般社団法人DME自動車&バイオDME普及推進委員会 退任 【居住地での活動】 メロディハイム武蔵浦和プライムフィールドに2008年3月から居住 2010年4月~2012年3月(第3~4期)マンション管理組合・理事長 2016年4月~2018年3月(第9~12期)マンション管理組合・理事長 2018年4月~2020年3月(第11~12期)マンション管理組合・理事長 2020年4月~2022年3月 管理組合大規模修繕専門委員会委員長 2022年4月~2024年3月(第15~16期)マンション管理組合 理事長 2024年 3月30日 マンション総会で任期満了で退任 現在は、一住民となりました。 現在、NPOクリーンエネルギーフォーラム 理事 その後解散 公益社団法人自動車技術会 正会員 退会 【一般社団法人 日本飼料用米振興協会の活動に従事】 2007年7月~2014年3月 任意団体 超多収穫米普及連絡会発起人、運営委員 主体的には車両低公害化推進(LPG/DME)の活動を行い、超多収穫米普及の活動へ助力。 2012年6月30日をもって、NERC、DME関連を退任。 2014年4月~2015年6月 一般社団法人日本飼料用米振興協会 設立時監事 2014年5月~ 特定非営利活動法人未来舎 副理事長 現職 2015年3月25日~ 一般社団法人日本飼料用米振興協会 理事・事務局長 現職 |
| 若狭 良治(わかさ りょうじ) 1944 年(昭和19年),中国(満州国)ハルビン市生。 戦後中国東北地域を転々、最終地は長春市。 長春民主日本人小学校(民日小)2年目終了時に日本に帰国 1953.4.15 第2次引揚船「興安丸」で秦皇島で乗船し、日本京都府(舞鶴)に上陸し、日本に引き揚げた。 最も私は満州ハルピン市の生まれですから、日本に来たわけです。 下記の写真は、父親(若狹清治)が北海道帝国大学農学部講師から転職し中国(満州)に派遣した本社が存在した会社(日本繊維工業株式会社)が京都に本社があった関係で京都に一時逗留した。 その関係で、帰国後の最初の地となる京都市、その関係で京都新聞が取材して社会面1面に大きくこの写真と記事(元気に帰国した若狹さん一家=当時、一家離散や戦争孤児など当たり前の時代背景で珍しい事例となったようだ)が掲載されました。記念に頂いた写真。裏に、父の偶感(感想文)がありました。 手書きは父。ワープロは私。 |


興安丸
| 私共は、下記記述の「第二次帰国船 4月7日~15日」で帰国した。 この前後の詳細な情報は持ち合わせをしていないが、次のようなインターネットでの情報を入手しました。父の写真裏の記述の4月15日と一致しました。この時、小学校2年生の終わり、3年の始まりの時期。現在、80歳になりました。左から3人目の栄子と5番目の良治の2名が存命。左の写真を編集ソフトで鮮明化をしてみました。 レファレンス事例詳細(中国からの引揚に関する関連記事を検索した結果) 事例作成日 登録日時:2014/11/21 18:02、更新日時:2018/03/16 14:52 提供館:広島県立図書館 (2110011)、管理番号:広県図20140008 質問:昭和28年8月の『中国新聞』に,中国からの引揚げ船・興安丸が舞鶴港に入港した記事が掲載されているか。 回答:『中国新聞』に掲載されていた昭和28年8月に舞鶴港に入港した興安丸関連の記事は,次のとおり。 8月8日(土)夕刊(8月7日発行)2面 「興安丸帰国者名簿」 8月9日(日)朝刊5面 「なお大陸に孤児一万 興安丸で百名が帰国」 8月11日(火)夕刊(8月10日発行)2面「孤児四十九名も帰国 第五次一船興安丸舞鶴へ」 8月11日(火)朝刊5面 「『大陸の孤児』71名帰る 第五次興安丸・涙の流浪物語」 8月15日(土)夕刊(8月14日発行)2面 「14年ぶり大陸一家も 郷土関係中共帰国者帰る」 回答プロセス お尋ねの時期の『中国新聞』については,記事を検索する手段がないため,当館で利用可能な朝日新聞データベースで当時の新聞記事を調査した。キーワードを「興安丸」,期間を昭和28(1953)年8月1日~9月30日に設定して検索を行ったところ,興安丸関連の記事が複数ヒットした。これらの記事によると,引揚げ援護には日本赤十字社が関与していることが分かった。 次に,中国からの引揚げ船の運航状況を確認するため,日本赤十字社の社史を調査した。『人道-その歩み:日本赤十字社百年史』の「第4編 日本赤十字社の事業 第12章 国際活動」の中に「引き揚げ援護」があり,中国本土地区からの引揚げについて,次の記述があった。 p.367 「昭和二十八年一月三十一日、日本赤十字社の島津社長を団長とする三団体代表六人と高良とみ参議院議員が北京に渡り、三月五日、共同コミュニケに調印し、第一次帰国船興安丸、高砂丸、白山丸、白竜丸の四隻が、三月中旬、舞鶴から中国に向かい、昭和二十八年十月の第七次帰国船まで二万六千百二十六人を運んだ。ところが、その十月、中国側は日本人の集団帰国が終わった旨を発表、(略)なおも折衝を続けていたところ、昭和二十九年八月、日本人戦犯四百十七人の釈放が伝えられたので、これを迎えるため第八次船を送った。こうして昭和三十三年七月の第二十一次船まで帰国開始以来三万三千二百十一人の同胞を運んで、一応、日本赤十字社としての集団帰国業務は終わり、(略)」 中国からの引揚げ船として,興安丸が運航された時期についての記述は見付からなかった。 『日本赤十字社社史稿 第6巻 昭和21年-昭和30年』には,「第二章 引揚げ援護」の,中共地区関係の記述の中に,第一次から第一二次帰国船までの記録が掲載されていた。そのうち昭和28年の7回にわたる引揚げ援護のうち,興安丸が中国からの引揚げ船として運航された時期は,次のとおりだった。 第一次帰国船 3月14日~23日 第二次帰国船 4月7日~15日 第三次帰国船 5月4日~15日 第四次帰国船 6月27日~7月8日 第五次帰国船 7月31日~8月10日 第五次帰国船について,次の記述があった。p.280-281 「第五次帰国船は、高砂丸を上海へ、興安丸を天津へ、白山丸を上海へ派遣することになった。 (略)興安丸は昭和二八年七月三一日午前一一時門司港出帆、(略)[昭和二八年八月]一〇日午前一一時無事舞鶴に帰港した。」 この記述から,利用者からの質問の期間に該当するのは,第五次帰国船として運航された興安丸であり,舞鶴港入港は8月10日であることが特定できた。 この記述を手掛かりに,興安丸が舞鶴港に入港した昭和28年8月10日前後の『中国新聞』を調査した。昭和28年8月8日(土)夕刊(8月7日発行),9日(日)朝刊,11日(火)夕刊(8月10日発行),11日(火)朝刊,15日(土)夕刊(8月14日発行)にそれぞれ記事が掲載されていた。 事前調査事項:NDC・日本史 (210 9版)・社会福祉 (369 9版) 参考資料:『人道-その歩み:日本赤十字社百年史』(日本新十字社/編,1979)(p.367 「第一次帰国船興安丸、高砂丸、白山丸、白竜丸の四隻が、[昭和二十八年]三月中旬、舞鶴から中国に向かい、昭和二十八年十月の第七次帰国船まで二万六千百二十六人を運んだ。」との記述あり。) 『日本赤十字社社史稿 第6巻』(日本新十字社/著,1972)(p.280-281 「第五次帰国船は、高砂丸を上海へ、興安丸を天津へ、白山丸を上海へ派遣することになった。(略)興安丸は昭和二八年七月三一日午前一一時門司港出帆、一路天津に向い、(略)[昭和二八年八月]一〇日午前一一時無事舞鶴に帰港した。」との記述あり。) 『中国新聞』昭和28年8月8日(土)夕刊~同年8月15日(土)夕刊(興安丸関連の記事の掲載あり。) キーワード 日本赤十字社・引揚げ援護・舞鶴港・興安丸・中国新聞・照会先・寄与者 備考・調査種別・事実調査 |


日本での小学校は、
札幌市立上白石(3年1学期)、京都市立吉祥院(3年2学期~4年1学期)、
美幌町立美幌(4年2学期~5年2学期)、札幌市立豊水(5年2学期~卒業)。
札幌市立中島中学校
▼ 下記は、札幌市立中島中学 3年時の集合写真(1クラス60名)最後列左から6番目
北海道立札幌南高等学校
現役で受けた北大を落ちて、当時の二期校だった室蘭工業大学土木科に合格した。
当時は、建築(黒四ダム記録風映画に影響を受け、建築への思いが強かった)を専攻したいとの想いが強く(また、父親が元北大の講師だったこともあり、姉のボーイフレンドたちも北大生が多く、我が家によく遊びに来ていたこともありました)、北大を再度チャレンジしたく、親に無理を言って、当時の桑園予備校に通いました。
翌年、北大を合格してから、二期校の名古屋工業大学を受験したが、全く物理では歯が立たなかった。結局北大理類教養部に入学。
せっかく北大に入ったが、教室は新築、学生の自主活動も抑えられており、学生部の教諭が学生自治会の壁ビラを剥がしていたのに反発をしていた。
そんな中で、教養部自治会の部屋と言っても部屋は無く、北側の3階301号教室の前のスペースに机や椅子とガリ版印刷セット、資料が置かれていた。
そのメンバーと親しくなり、無味乾燥気味の教養校舎の中で文化活動の独自活動を推進することにして、チラシをガリ切り印刷(自治会の借りて)して、憲法や人文社会に関する教授たちにお願いして特別講演会を開催することにした。
すると、学部の4年生まで含めて大勢の参加者があり、改めてこういった取り組みの必要性を感じ、引き続きまい進するようになり、併せて、クラスの運営でもクラス自治委員を引き受け、翌年の9月の学部以降まで過ごすことになってしまった。
教養部では自治会役員はしなかったが、農学部畜産学部に移行後、農学部に当時の17年前につぶされた学生自治会(学友会)の再建を手掛けることになりました。
休眠状態だった「農学部学生協議会」(農学部の自主的なサークルの協議会)を再建し、農学部学生集会を開催し、全員投票を行い、農学部自治会を再建しました。
私自身は、全農学部クラス代表者会議を発足させて後任に委託しましたが、その後全員投票で再建(出発)がきまりました。




| 数少ない大学時代の写真。まじめに、実習事業に出席していました。 日高の静内に実験牧場があり、一週間、泊りがけで実習を受け、馬にも乗れるようになりました。 畜産も家畜をよく知らないといけないということで、比較解剖学では、ウサギ、牛、馬、羊、鶏などの解剖を解剖実習をしました。 馬の解剖では、ラバ(騾馬):牝馬とオス驢馬のあいの子 この年、畜産の解剖実験で実験費用が出て、前年までが、私たちの時は自らが実物の解剖が可能となった。私たちの時は自らが実物の解剖が可能となった。欠食学生時代、牛、馬など肉を受け取り、先輩のアパートでおいしくいただきました。 羊の場合は、血管を観察するのが種目となり、血管から朱(水銀入りの色素)を入れたため廃棄処分、まことに残念ながら、ジンギスカン鍋とはならなかった。 |
1969年 3月 北海道大学農学部畜産学科卒業
数少ない写真 3枚
農学部畜産学科の日高・静内の農学部実習農場での乗馬
下宿、貸室から最後の年に学部寮(北学寮)で1年間、後半は寮務で活動。

| 70年代の大学紛争の前夜、北大正門を入場(西方向へ)して、右側(北側)にあった大学事務局本部前にこの立て看板を立て、気勢を上げました。暴力などない心の訴えでした。この時、北学寮の寮務(寮長補佐)を務めました。前列左側から2人目ハンドマイクを持ったのが若狹。左から4人目が寮長。 |
1969年 3月 日本生協連・北海道支所商品管理係に勤務。
1971年 4月 室蘭中央生協へ出向 高砂支店長。
1971年10月 北海道支所商品企画担当(瓶缶、粉製品、塩干、生鮮担当)。
1976年 7月 日本生協連・事業部商品企画担当(塩干、生鮮、水産)。
1980年 4月 生鮮課長。

| この書籍は、1985年に出版されたもの。 魚流通は、産地(漁業者、産地市場)や消費地(産地中央市場や店舗)とそれを結ぶ仲買人や大手企業、商社等が絡み合い、その実態は、個人的なノウハウに拠るところが多く、関係する書籍も少ない中で、生鮮課長から人事教育課長への人事異動の際に書き上げたもの。 現役時代には、仕入れや販売に関わるノウハウの世界を伝えたものです。) 詳細掲載ページに移動。 シリーズ・くらしの豊かさを求めて (編集協力・日本生活協同組合連合会) 定価各780円 消費税別 ①野菜レポート おいしさと安全性を追って 岸田葉子 著 ②新しい住生活 住み方と収納整理 田中恒子 著 ③くらしの中で子育てを 家事労働と子どもたち 飯野こう 著 ④加工食品最前線 食生活をどう変えるか 陳 志成 著 ⑤おいしい魚をさがす 体験的魚流通論 若狭良治 著 |
1983年 4月 総務部人事教育担当課長~人事教育部人事教育課長。
1985年8月 日本生協連編集協力 「おいしい魚をさがす」出版
1986年 4月 指導部指導担当(職域生協担当)経営・職員教育・食堂・店舗・冠婚葬祭。
| 指導部の職域生協担当で職域生協の中でも一番大きなトヨタ生協が行っている葬祭事業に注目し、浅草の葬儀会社の主催する学習会で、アメリカ大使館員(日本人の稲葉さん)の講演を聞き、日本の高齢化社会と当時は80万人段階だった死亡者数が第一次団塊の世代の頃には200万人レベルになるなど葬儀マーケットは大きくなることを学び、同時に、葬儀の在り方にも変化が現れることを予測し、多くの職場の組合員を擁する職域生協の将来事業として注目しました。 資料:トレンド情報(日本生協連・職域生協ニュース 掲載) 講演 『高齢化社会と「葬儀」マーケット』 1989年9月11日(月) 浅草ビューホテルにて 稲葉 厚 氏 (アメリカ大使館商務官) ワード版 PDF版 |
日本生協連・職域生協協議会 創設に関与、事務局担当
1990年 7月 日本生協連・中央地連事務局次長(組織課長)を歴任。
電気トラック(EV)、LPG、DME自動車の取組活動
1991年 7月 コープかながわへ移籍
コープ電動車両開発株式会社(COOP EV Vehicle) 業務部長。
社名変更:コープ低公害車開発株式会社(COOP EcoVehicle) 代表取締役専務。
この間、電気トラック・LPガストラック・DMEトラックなどの低公害車開発普及に従事。

1996年11月 神奈川県「かながわ地球環境賞」を受賞
1998年 6月 神奈川県の推薦で環境庁「地域環境保全功労賞」を受賞

2000台達成を喜ぶ筆者
| 日本生協連・事業部時代の上司(平島福正さん)が福岡県生協連の専務理事の時、環境問題で県連として初めて学習会を開催し、講師として招いてくれた。 LPGトラック用のスタンド設置を目標としていたが、残念ながら実現しなかった。 |
| 福岡県生協連の環境を守る取り組み ⓵ LPGスタンドの模索 1997年6月 コープ低公害車開発㈱の若狭良治氏を招き講演会 1998年4月 「第1回生協LPガス事業研究会」開催・生協LPガス事業研究会の呼び掛けで地球温暖化防止の一環として参加。 ・LPGスタンド設置拡大などの取組みは県生協連レベルでは進展せず。 ⓶ 環境環境ホルモン・ダイオキシン対策の活動 1998年3月 全国消費団連事務局長の日和佐信子氏を招いて「私たちのライフスタイルと環境について」の講演会・その後、環境ホルモン(内分泌かく乱物質)が大きな社会本題として表面化。 2000年9月 「松葉によるダイオキシン調査に継続的に取り組むことに関する請願書」・グリーンコープふくおか連合が中心になり福岡県と県内の市町村に対して提出し県生協連は、福岡県議会への議会要請を媒介する役割を担った。環境を守る取り組み ⓷ 「地球温暖化防止・エコリレー」の取り組み 1997年9月 「地球温暖化防止・列島縦断エコリレー」実施• 国連気候変動枠組条約締約国会議(COP3)の京都会議に向けたとりくみ • 県生協連は、エフコープ生協・グリーンコープふくおか連合・連合福岡・西日本リサイクル市民の会とともに、奥田八二元県知事(元九州大学生協理事長)を委員長とする福岡県実行委員会に参加し、県内でのエコリレー(国道3号線・10号線の両コース)を支援。 • 福岡県知事の外、県内約80市町村首長のメッセージが集約できた。 1997年12月 県議会に「温暖化防止京都会議議定書を推進する要請書」採択される 2005年2月 「京都議定書」発効 |
1999年6月 全国の生協および生協の委託宅配事業者のLPガストラックが2000台を達成した。
1990年に電気トラックを目指していた時期に
2000年に2000㎏(2㌧積載車)2000台導入を目指し、
コープ電動車両開発(株)の愛称を「CO-O・EV2000」と称した。
また、通商産業省は全国で30万台の電気自動車を達成すると標榜していた。
結果として、低公害車(LPガストラック)で、
2000年に1.5㌧(=約2トン)積載車を2000台超えの導入を実現した。
結果的には、2000年に1・5、積載のLPガストラック2850台を全国の生協に導入。
コープ低公害車開発は2006年3月の会社閉鎖までに、累計(廃車も含めて)で7000台以上、
生協の現有車両数として配送車両の35%(5500台)をLPガストラックに転換できた。
2006 年3 月20 日、コープ低公害車開発株式会社を閉鎖、役員退任
2006 年3 月21 日、株式会社北海道自然エネルギー研究センター(NERC) 取締役/東京支所
2006 年3 月15 日、任意団体:DME自動車普及推進委員会 事務局長就任
2010 年4月1 日、 一般社団法人DME自動車普及推進委員会に組織変更 理事・事務局長
株式会社NERC退任。
一般社団法人DME自動車&バイオDME普及推進委員会 退任
【DME推進組織のその後の歩み】
2007年7月~2014年3月 任意団体 超多収穫米普及連絡会 発起人、運営委員
2014年4月~2015年6月 一般社団法人日本飼料用米振興協会 設立 監事
2014年5月~ 特定非営利活動法人未来舎 副理事長 現職
2015年3月25日~ 一般社団法人日本飼料用米振興協会 理事・事務局長 現職
2010年4月~2012年3月(第3~4期)居住マンション管理組合・理事長
2016年4月~2018年3月(第9~12期)居住マンション管理組合・理事長
2018年4月~2020年3月(第11~12期)管理組合・理事長
2020年4月~2022年3月 管理組合大規模修繕専門委員会委員長
2022年4月~2024年3月(第15~16期)メロディハイム武蔵浦和プライムフィールド管理組合 理事長
現在は、一住民となりました。
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生協流通新聞 第46号(アドバンクセンター) 1994年4月5日
この人・この企業⓸ コープEV 若狹良治 統括マネジャー

オランダセルフオートガススタンド(LPG)と筆者
1998年6月6日 朝日新聞 朝刊 ひと欄
若狭良治 低公害車の普及で表彰「コープ」で指揮をとる(ひと)
【人(ひと)】
生協のマークをつけたトラック型のLPG車が目につく。
食料や日用品を配達するための、液化石油ガスで動く低公害車だ。
いくつもの生協が出資したコープ低公害車開発(本社・横浜市)が五日、環境庁の地域環境保全功労者に選ばれた。
統括マネジャーとして開発を考え、全国の生協に導入を働きかけてきた。
「といっても、正社員は私一人」と笑うが、千四百八十台まで増やした立役者だ。
日本生協連合会に勤めていた七年前、幹部に請われて職場を変わり電気自動車づくりを始めた。 数千万円かけて試作車ができたが、バッテリー不足で長く走れなかった。
「使い勝手が悪いし、値段も高い。だからといって一台しか造れないのでは、組合員に納得してもらえない」
途方に暮れているとき、LPGを使うごみ収集車をトヨタ自動車が開発していると聞いた。
ディーゼル車に比べ窒素酸化物が少なく、黒煙も粒子状物質も出ない、という。
はたして売れるかと不安そうなトヨタの技術者を「普及できます」と説得し続けて一年、一回り小さなエンジンをつけた第一号ができた。
全国を歩いた。
ある市で「一番急な坂道を上ったら信用する」と言われ、挑戦する車を応援しながら見守った。 今では全国の生協がトラックの一割強を乗り換えている。
電気や天然ガスで動く低公害車四種の開発には国から補助がでる。
「役人は補助で低公害車を増やせばよいという発想です」。
金がメーカーに流れ、開発の自主努力をはばんでいると批判的だ。
「千四百台にもなるとメーカーも行政も評価せざるをえなくなった」
そばで手伝う女性たちは「出世欲、損得なしに世の中をよくしたいと思っている」と評する。
北大で学生運動に没頭して自治会をつくったころの情熱を持ち続けている。
わかさ・りょうじ 「環境をよくする生協運動とは何か、をいつも考えています」。53歳。
(文・杉本裕明 写真・高波淳)


【ひとこと・若狭良治】機関月刊誌 CO-OP・EVプログレス掲載時の文書
| コープ低公害車開発株式会社が神奈川県環境部のご推薦を受けて、「平成10年度 地域環境保全功労者表彰」を受賞することができました。 推薦いただいた神奈川県の担当の方は全国を対象とした活動を進めてきていることで、「地域」ということではないのだがということでした。 しかし、私どもは、この間LPGトラックの普及活動を進める中で、LPGトラックの導入の意義について次のように説明してきました。 「地球環境保全」となると頭ではなんとなくわかるが、 体で実感できない。 しかし、 職場の作業・労働環境を改善するということであると、排ガスの臭いや黒煙、騒音、振動などをどのように削減するかということで、具体的な課題として理解ができる。 実際に、配送センターでディーゼルトラックからLPGトラックへの転換が進むに従い、朝の排ガス公害が改善してきたという具体的な現場報告を受けた時、推進してきた者としても、活動の意義の理解が深まりました。 そのような立場から見ると、今回の「地域環境」というジャンルは、むしろわたしたちが進めてきたことをわかりやすく評価していただいたという感想を持ちました。 今日、 トヨタのハイブリッドカー『プリウス』 の広告などの影響もあり、一般ユーザーの環境にやさしい車両への関心は高まってきています。 具体的には、そのような車両の購入を望む消費者が増えているというアンケート結果も報道されています。 電気自動車(EV) や天然ガス自動車 (CNG) ハイブリッドカー (HEV など) の普及も進んできています。 しかし、ここで問題なのは、環境庁が推進してきた『低公害車』は代替エネルギー車であることが条件となっていることです。 それ自体は従来車両より排ガス性状が相対的にクリーンですが、現実的にディーゼル代替としては機能しきれない弱点を持っています。 その理由として挙げられるのは、燃料がガソリンや軽油と比較して、携帯性に難があることです。 そのため、ガソリン・軽油に勝る燃料はないとまで言われています。 そのような中で、 LPG (液化石油ガス)は、40年前からタクシー燃料としてガソリン代替燃料として使用されてきました。 そのために、ガソリンと同じ排ガス規制を受け、従来エネルギーとして低減を目指す燃料とされてきました。 コープ低公害車開発㈱は、開発参加生協の要望を受け、現実的な低害化を目指す立場から、ディーゼル代替が可能な車両であって、現実的に低公害なLPGトラックを自動車メーカーと共同で開発し普及を図ってきました。 今回、環境庁からこれまでの8年間の活動が評価され、「地域環境保全功労者」として表彰されたことは、これまでの活動が間違っていなかったこと。 また、行政の進めてきた大気汚染防止および保全活動に対して、ユーザーの立場から積極的に改善を目指して提言してきたことが認められたものと受けとめました。 今回の「受賞」 と「朝日新聞の人欄」に載ったことを誰よりも喜んでいただいたのは、全国の生協の組合員の皆さんでした。 組合員さんたちが今まで行ってきた大気汚染測定活動の成果として自分たちのこととして喜んでいただきました。 また、パートさんたちが切抜きを持って出勤してきました。 元気が出ました。ありがとうございます。 |
こぼれ話 月刊誌:CO-OP・EV プログレス 2005年6月1日
| 月刊誌:CO-OP・EV プログレス 2005年6月1日 発行:毎月 1日 発行所:コープ低公害車開発株式会社 発行責任者:若狭 良治 今回はまったく違う話をひとつ。 テレビを見ていたら、アメリカの葬儀産業が明朗会計を売り物に日本の葬儀事業へ乗り出して、評判が良いとの話である。 また、国会で話題の郵政民営化議論で、民営化の要求はアメリカの要求だという意見と小泉さんは20年来の持論だから昨日今日の話ではないというような議論をやはりテレビの討論会で見た。 そこで、私自身の経験だが、今から20年ほど前から5年間、職域にある生活協同組合の経営指導などの役職についたことがある(前職の日本生活協同組合連合会時代)。 1992年には学生が減り始め、2007年に人口が減少を始めるということだとか、高齢化社会の急速な進展とか、福祉社会の必要性だとかを議論する中で、職場の生協の生きる道を様々に検討した。 その中で、葬儀事業は逆に対象者が増えていくことと同時に葬家の親類は減少していくこと。 その中で亡くなった方との体面を重んずる欧風の棺おけ葬式が重要になってくるということや、欧米のように生前に棺おけを購入したり、本人自身が葬式の予約をする時代がやってくるというような話を葬儀事業研究会を立ち上げて勉強したことを思い出した。 その時、アメリカ大使館の商務官が言っていたのだが、アメリカにはAPAという組織があり、日米の貿易不均衡を是正することを追究する組織で、そこの最大の目的は、日本と米国の文化的経済的環境の同一性の醸成であり、商務官の大きな役割もそこにあるというようなことである。 それらの事柄はその後確実に日本に根付いていった。 エンバーミングという遺体を生きていたような状態に保ち、故人とのお別れをする棺おけ葬式の方式は、いつの間にか保健所の許可もおり、米国の葬儀產業が日本で評判が良いという事態になったのだなと思うのである。 15年前、カリフォルニア州サクラメント市で学んだ自動車排気ガス規制への厳しさも日本でも当たり前になりつつある。 大きな枠組みがひしひしと迫ってくるのを感じるのである。 「良い?」ことも「悪い?」 こともである。 65歳以上の高齢者割合が7%から14%になるのに要した年数。 日本は26年、フランスは165年、スウェーデン85年、アメリカ75年、西ドイツ・イギリス45年だそうだ。 若狭 |
人ひと 生協流通新聞
「低公害車」を普及促進 若狭 良治 2006年2月20日 (月) 第302号

| 人ひと 「低公害車」を普及促進 若狭 良治 生協に低公害車約5,500台(転換率約35%)を普及促進したコープ低公害車開発がこの3月に16年の幕を閉じる。 普及促進を担ってきた同社若狭良治氏(代表取締役専務)は「まだやり残した事も多々ありますが、ともかく、この16年で一定の成果を挙げることができました」と振り返る。 普及促進は、一人の力ではなし得ない活動。 それを支え続けたのは、同氏の真摯な姿勢と、めげることのない一途な性格。 専門的に知識を得ないと理解が深められない車の内燃機関や構造。 今では、専門家と真っ正面から議論するほどの横溢した知識が詰まっている。 その中で、LPGエンジンの共同改良開発、インフラ整備、環境負荷軽減のためのセミナーなどを開催実践的な啓発活動は、生協のみならず、行政も動かしてきた。 民間配送業者のLPG車採用の原動力ともなった。 「環境負荷啓発は、地味で地道な活動 成果を挙げるには持続的に活動を推進していかなければなりません。 コープ低公害車開発は3月16年の幕を閉じますが、生協の中で積極的に評価されたなら幸甚です」 柔和な表情の中に一瞬、寂塞感を漂わせたが、豪放磊落な笑いで、その隙をかき消した。 今後は、持続的な環境社会の創出から「環境にやさしい次世代燃料「DME」使用の自動車研究開発と普及」などを推進していく。 62歳。 1996年 神奈川県・かながわ地球環境賞受賞。 1998年 環境庁・地域環境保全功労賞受賞。 2006年2月20日 (月) 第302号 生協流通新聞 |
2006年(平成18年) 10 月17日(火曜日) 読売新聞
【彩の人】 「次世代燃料DMEを使う自動車の普及に取り組む」

2006年(平成18年) 10 月17日(火曜日) 読売新聞
【彩の人】 「次世代燃料DMEを使う自動車の普及に取り組む」
| 「足元を見ながら新技術に挑戦」 若狭良治さん 62歳(さいたま市桜区) DME(ジメチルエーテル)は、天然ガスや石炭のほか、バイオマス(生物資源)や産業廃棄物などからも生成できる。 二酸化炭素や窒素酸化物の排出畳が少ないとされ、低公害な点も注目されている新エネルギーだ。 今年4月、民間プロジェクト組織「DME自動車普及推進委員会」の事務局長を引き受け、さいたま市浦和区に事務所を設けた。 自然エネルギー研究センター「NERC(ネルク)」(本社・札幌市)の東京支所を兼ねる。 「NERCは学生時代の友人が始めた企業。『看板を貸してほしい。自分で稼ぐから』と頼んで支所長となりました」と苦笑する。 委員会は自動車部品メーカーや燃料製造企業、商社など門社で組織され、「自動車」「燃料」「インフラ」の3部会を持つ。 まずは「黒煙が出ないなどの優れた燃料としての特性」を踏まえ、排ガス規制が段階的に厳しくなるディーゼルエンジンへの実用化を目指す。 事務局は、企業が行う共同研究などのプロジェクトにおいて、重要な調整役などを担っている。 中国・ハルビン市生まれ。北海道大農学部を卒業後、日本生活協同組合連合会の北海道支所に就職。「はじめはイカやアスパラなどを求めて北海道内を走り回った。 東京の本部に異動後、冷凍魚の担当になり、お魚の本を出した」と振り返る。 コープかながわ(横浜市)に移った1991年、生協の関連企業「コープ電動車両開発」(1994年にコープ低公害車開発に社名変更)に出向し、電気トラックの研究開発を任された。 後に自動車メーカーと、液化石油ガス(LPG)トラックの試作に挑んだ。 その結果、全国の各生協が保有する配送トラックのうち約35%がLPGに転換されるなど、一定の役割を果たしたとして、同社は今年3月に閉鎖された。 自身も、「大学1年から42年間世話になった」という生協を「卒業」した。 DMEの実用化に向けては、幾つも壁が立ちはだかる。 「まだ普及に必要なDME自動車の法的な構造基準がない。補充スタンドの整備も必要。現実の足元をしっかり見ながら挑戦し続けたい」と決意を語った。(新井勝) 写真説明 「夢を抱きつつ現実を直視して仕事を進めたい」と意欲語る若狭さん |
日本生活協同組合連合会から1991年7月に「コープかながわ」に移籍。コープ電動車両開発㈱、コープ低公害車開発㈱で16年間にわたり活動しました。2006年3月21日から㈱NERC(ネルク)に移籍。併せて、任意団体「DME自動車普及促進委員会」の事務局長として、NERC東京支所・支所長を兼務する形で活動を始めました。
| ウッドファイパー(木質繊維断熱材) 株式会社木の繊維が生産しているウッドファイバー(木質繊維断熱材)は、断熱性能はもとより、熱緩和・防音・防耐火・調湿機能など、木でなければ持ち得ない特性に加え、生産に必要な必要とするエネルギーが他の建材に比べて極端に小さく、生産や廃棄の過程で廃棄物の発生もない等、住む人や作る人、環境に優しい画期的なエコ建材です。 私ども株式会社N E R C (ネルク)東京支所は、木質繊維断熱材(ウッドファイパー)の販売・普及活動を積極的に進めております。 お問合せは、postmaster@nerc-tokvo. cornまで ※ 株式会社NERCは、ドイツ・ホーマテルム社が開発した木質繊維断熱材の日本における製造・販売のライセンスホルダーです |
| NERCとは、Natural Energy Research Center (自然エネルギー研究センター)の略称を会社名にしたものです。NERCは、10年間に大学ベンチャーとして発足しました。東京支所は、4年前Iこ、DME自動車普及推進委員会の事務局を受託することにした際に設立しました。東京支所は、DME自動車の普及推進を進める委員会活動をサポートする活動を行いながら、NERCがドイツよりライセンスを獲得した木質断熱材の圏内製品の販売と普及啓発活動を行っています。 |
2009年1月3日 朝日新聞
縦割り打破!エコトラック業界を束ねて低公害車を開発
若狭 良治さん (65)


| 2009年1月3日 朝日新聞 縦割り打破!エコトラック業界を束ねて低公害車を開発 若狭 良治さん (65) 天然ガスや石炭からするジメチルエーテル(DME)という燃料がある。 これをトラックの次世代燃料にしようと取り組んで10年目になる。 ディーゼルエンジンに使う軽油に比べ二酸化炭素の排出は少なく、ぜんそくの原因の粒子状物質は極めて少ない。 環境保護に最適な低公害車は何かを、何か、と考えた結論がこれだ。 一直線にDMEにたどり着いたわけではない。 まず試みたのは電気だ。 日本生活協同組合連合会に勤めていた私が加盟生協に頼まれ、小型電気トラックを開発する小さな会社に移ったのは1991年。 メーカー共同開発したが、1回の充電で走れる距離はわずか50キロで、2千万円もした。実用には向かない。 そんな頃、トヨタ自動車が液化石油ガス(LPG)を燃料にしたごみ収集車を作ろうとしていることを知った。 LPGは粒子状物質を出さないし、すでにタンシーにも使われていて、開発は難しくない。小型トラックの共同開発を持ちかけた。 完成車を見て、加盟生協の中には「電気トラックには夢があったが、LPGでは」と採用を渋るところもあった。 だが、大切なのは 「実用的」なこと。約7千台を導入した。 ただLPGはガソリンエンジンを使うので、中型より大きなトラクには向かない。 研究者を回り、行き着ついたのが、スプレーの噴射剤などに使うDMEだ。 業界は「補給所の設備が大変だ」などと否定的だった。 2001年、人脈をたどり、産業技術総合研究所や伊藤忠商事、岩谷産業などに打診してみた。 すると、各社ともDMEに意欲的であった。 翌年に部長や課長クラスを中心にしたグループができた。 試作には億単位の金がかかる。親しい大学教授らに協力してもらい、国の補助金を申請した。 支給されるまでは生協から2億円を借りてしのいだ。 2003年 いすず中央研究所の協力で4トン積み中型トラックの試作車が完成した。 同じ補助金で、新潟市などにDMEの補給所が4カ所できた。 試作車は立派に走った。 燃費や耐久性試験などを続けるうちにようやく昨年、国が動いた。 国土交通省の公募事業にいすゞ中央研究所が手をあげ、新潟県首都圏で2台のトラックの耐久実験が始まった。 実用化への大きな一歩だ。 今年2月には、 木材からつくったバイオDME燃料をDMEに混ぜ、走行実験をする。 木材を利用することで、さらに二酸化炭素の排出が減らせる。 燃料は経済産業省、自動車交通は国土交通省と、縦割り行政の弊害から、一緒にDME車を普及しようという意欲が乏しく、それが影を落としていた。 こんな無味なことはない。 共同開発したグループは2006年、豊田通商なども加わり「DME自動車普及促進委員会」に発展した。 私は事務局長を務めている。 それぞれの企業や研究所が協力し、お金を出し合い、風通しをよくして、目標に向かう。 我々の役割はそこにある。 (写真・聞き手・杉本裕明) |
DMEトラックの実用へ向けての活動を改めてみる
「主観か?客観か!?」
DME自動車普及推進委員会事務局長・若狭良治
| 日刊自動車新聞 「車笛」 2010年1月9日(土) 第7面 「自動車燃料と車種選択と今後の見通し(その16)」 DMEトラックの実用へ向けての活動を改めてみる 「主観か?客観か!?」 DME自動車普及推進委員会事務局長・若狭良治 ■なぜ、DME自動車は全国紙に全国版で報道されないのか? 今月、朝日新聞の正月特集”オピニオン2010「成長はどこに(1)~(5)」”が企画され、不肖私が掲載される機会を得た。10年近くDMEトラックの研究開発や普及の活動を推進してきたが、一般新聞にDMEは報道される機会がほとんどなかった。 もちろん、ブロック紙などの地方紙や経済紙などで報道されることもあり、また、専門紙誌には相当なスペースをとって掲載されることもあった。何よりも、本紙の本欄にDME自動車普及推進委員会事務局長の名前で、3年間にわたり拙文を掲載させていただいてきたことなど、文句を言うような筋合いではないということは重々理解しているつもりである。しかし、それでも全国紙の全国版で取り上げてほしいというのは、このような活動を推進しているものにとっては共通の思いではないかとつくづく考える次第である。 振り返ると、1991年に46歳で電気トラックを研究開発する機会を得た時はブラジルで開催された環境サミットと時期が一致し、2時間にわたるNHKスペシャルで20分以上も私自身の出番があるほど、生協における電気トラックの研究開発活動が華々しく取り上げられた。電気トラックは、様々な民放テレビでも取り上げてくれたし、写真週刊誌にも撮られた。 しかし、LPGトラックの開発に移ってからはNHKで取り上げられることは無くなった。生協でLPGトラックの普及が進むことにともなって、普及生協の地元では4大紙の地方版で大きく取り上げられる機会は複数あった。ところが、全国版での扱いになることは無かった。民放テレビでも取り上げてくれない。 一般的に、電気自動車ならば一人乗り自動車でも大々的に取り上げられるのに、その他のものだと、様々な取り組みが一般紙に取り上げられはするが、全国版に載ることは少ない。それに対して自動車メーカーなどが発表する新車情報や車両の低公害化や環境対策に関わる記事が全国的に報道されることは日常的に行われる。それも、専門に研究開発や調査をしている者から見て、その効果や評価に疑問が多いものがあったとしても、ほとんど無批判に報道されることが多い。 旧知の朝日新聞社の記者と一般新聞でどんなことをしたらDME燃料と自動車のことを取り上げてくれるのかということについて話し合った。その回答は明確である。「記事にならんものは無理」だという。記事にならんとはなんだろうか? ■主観か?客観か? 新聞記者が語ることによると、「誰がDMEを知っているのか?」「誰が、DMEの記事を読んでくれるのか?」「DMEは夢を与えられるのか?」「実用化はいつなのか?来年のか、5年後か?10年後か?」ということのようである。 主観的には、それらの疑問に対して繰り返し説明してきたつもりである。しかし、この間、エコカーワールドや環境技術展、モーターショーなどにDME自動車を展示してきた。しかし、そこに一般紙の記者が取材に来たことはなかった。少なくともこの10年間は。また、自動車に関わる展示場所で来ている記者さんに声をかけてみても、電気自動車にみんな夢中である。私自身、電気トラックを研究開発している時、取材の申し込みをいっぱい受けたし、新聞や雑誌に掲載してもらう苦労をしたことが無い。 電気トラックの開発をしているときに、実用化については、様々な問題を抱えていた。その頃、一緒に展示していて同じ悩みを抱えていたのが、天然ガス自動車(CNG)である。電気自動車同様に一充填(じゅうてん)走行距離は50キロメートルと短いものだった。 その頃の日本での規制では、天然ガス自動車の製造も走行も不便であった。それを日本ガス協会は豊富な資金力と政治力を駆使して、世界の先端のCNG自動車規則を翻訳し、そのまま日本での規制に組み込んだ。 一方、LPG自動車については、業界、特にタクシーやタクシー用充填スタンドを運営するスタンド協会は、LPG自動車の普及についてCNG自動車との対抗上熱心に見えたが、不用意にLPG自動車を増やすとガソリン並みの税金をかけられることになり、タクシー業界に迷惑をかけるという考えに立っており、CNG自動車のようなスタンドの設置基準を緩和し、燃料ボンベの再検査基準を見直すなどのことを避けてきた。 私はユーザーの立場で、CNG車並みの規制緩和を要望したがまったくの徒労に終わった経験を多く持っている。このため、LPG自動車の普及活動は、既存の規則規定の範囲内でしか進まなかった。マスコミに対する働きかけも限定的で、ほとんどが業界対応の動きでしかなかった。 ■客観的にみると 今回、朝日新聞の企画は、様々な活動をしてきた個人に焦点を当て、現在の活動を紹介するものであった。朝刊の1ページをフルに使用して、1日3名、合計15名の活動紹介である。 書き出しは「天然ガスや石炭から合成して造られるジメチルエーテル(DME)をトラックの燃料にしようと取り組み10年目になった。軽油に比べ、二酸化炭素は1割以上少なく、ぜんそくの原因の粒子状物質はほとんど出ない。環境保全に貢献できる低公害車とは何か、と考えた結論がこれだった」というもので、電気トラック、LPガストラックの取り組みを経てDMEにたどり着いたという筋書きである。 やはり、現在話題の電気自動車とはなかなか縁が切れないものである。もちろん、新聞記事であるから説明には制約がつき物である。20年近い活動を16文字29行で収めるのであるから、そのほとんどは舌足らずになる。また、言い切りが好まれるので、現在進行中の話などは微妙な言い回しになるが、文書上ではそんなことはなかなか生かされない。また、何事も一人ではできないので、多くの仲間がいるが、記事は私中心になる。様々な関係者との交渉中のこともあり、言葉遣いは気をつけているが、文書になるとどうも敵を作っているようにも見える。改めて、身の回りを見直してしまう。 ■バイオDME燃料と自動車走行試験 朝日新聞の記事では「私たちは2月、委員会と研究機関が共同研究で木材から作ったバイオ燃料を天然ガス由来のDMEに混ぜ、走行実験する。中国などに比べ、実行力で遅れる業界の意向に振り回される国のエネルギー政策だが、『ほら、やれるじゃないか』と言いたい。」ということで締めくくった。 最後の意味は、電力業界・石油業界・自動車業界窓口官庁である経済産業省・資源エネルギー庁のエネルギー政策が世界の常識とかけ離れて、内弁慶的に進んできた結果、エネルギー分野で様々に世界的に後れをとってきていることへの警鐘である。 とくに、自然エネルギーの活用という面で、様々な反省が必要かと思う。つまり、新たなインフラ整備を敬遠するエネルギー業界と自動車業界。この面での世界的な遅れはいまや常識となったが、2~3年前まではその自覚がマスコミにも無かったのではないだろうか?地球温暖化かどうかではなく、エネルギー節約をするということが結果として様々な意味で日本にとってプラスに働くようにしていくことが大事なのだということだろう。 写真説明 新潟市西区黒鳥 東邦アーステッククロサキ事業所ない充填スタンドで充填する新潟運輸DMEトラック |



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日刊自動車新聞紙上教育講座を開講【2006年】
店長のためのマネジメント基礎講座 PDF
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日本のエネルギーや利用技術はどうなるのだろうか?
2014年、物流ニッポンの記者に頼まれて、昔話を書いたもの。
私にとっては、1991年から2014年の間、電気トラック、LPガストラック、DMEトラックおよびDME燃料生産と普及の活動を最後に自動車の低公害化の取組みをしてきたが、15年間の活動に終止符を打ち、並行して進めてきた飼料用米の普及活動へ全面的にシフトをした時である。
なんで、今更私なのかと問うと、基本的に若狹さんの提起した課題はまだまだ未達成だし、特に物流を担う分野はまだまだ未完成。
若狹さんのやってきた分野の活動は必要だと感じるからだと言う。
正直、私が目指す活動の分野は、日本はそれなりに取組への手付けは早いが、そこからは韓国や中国の方が確実に速いし実績の上がっている。
それに対して日本の国の政府や企業は根本的なところで芯が無いように感じるのは私だけではないように思うのである。
コロナ禍とウクライナ侵攻、世界的な気候変動(大飢饉と大水害)などで食料自給率を向上させないといけない側面でやっていることは、十年一昔の時代の旧態依然な情報収集と将来の設計機能。
このままでは、日本は、工業面でも農業面でも後れを取ってしまうのではないかと心配している昨今である。
そんな想いと立場で書いたストーリーである。
それから3年後に同じ様なことで再び文書を書いて欲しいと頼まれたが、正直、横目で見てきただけの立場で新しい文書を書くことはできなかった。
2022年現在、1991年から31年が過ぎた。
トヨタが系列化した日野自動車の不正行為に対して制裁を科したという話。
エンジンを作れない弱さから電気自動車へ邁進しているアメリカと中国の企業が電気自動車でリーダーとなっていると昨今。
はたして日本はどうなるのであろうか?
車両の低公害化実現のための活動を進めた時期(2007年1月~20087月年)
新たなトラック燃料の可能性 (上)・下
有志生協が株式会社創設 未来舎副理事長 若狭 良治


| 新たなトラック燃料の可能性 (上)・下 有志生協が株式会社創設 未来舎副理事長 若狭 良治 物流ニッポン 2014年10月23日(木) この二十数年間、電気トラック、液化石油(LP)ガストラック、DME(ジメチルエーテル) トラックの研究開発や普及活動に従事したことを本紙の記者と話したことが縁で、寄稿を頼まれた。考えてみると、研究開発の推進や事務局の仕事に忙殺され、それらをまとめるゆとりが無かった。 実際に進行中の業務に関係する話を、その中に書くのは難しい。 ノウハウやスキルを開放することにもなるからである。 そういう意味では、トラック関連の仕事を離れた現在、今日的な視点でトラックや燃料の問題に言及するのは時宜を得ている、と若干の提言でも書ければと思い、筆を起こす。 私は長年(4~6歳)「車両の低公害化」への取り組みに携わってきたが、最近の若い運転者は「低公害化」の意味をよく理解できないのではないかと思う。 それほど近年の車両は、排出ガスや騒音、振動の問題が改善されている。 経済成長やバブル景気など世の中が騒がしかった! 1980年代は、国民の環境問題に対する問題意識もそれほど高くない時期で、環境規制とはほとんど無縁なディーゼル軍が、大型トラックやバスのみならず、ワンボックスカーから小型の乗用車に至るまで幅広く普及し、大半の車両が真っ黒黒煙を排出していた。 車両の排出管からは、黒煙が結晶化した綿ゴミのようなものが垂れ下がっていたのを記憶する。 黒煙を排出していたのはガソリン小型トラックも同じ、運送事業者の配送セン ターは、排出ガスで真っ黒となり、悪臭が染みついていた。 従業員にとって、決して健康的な職場ではなかった。 車両の環境性能が増してきたとは言うものの、現在でも大型トラックが横に来ると、まだまだうるさい。 長期間使用している大型トラックやバスが通り過ぎた後、不快な排出ガスの臭いに顔をしかめることもある。 本稿では、20年余りにわたる経験を基に、新たなトラック燃料の可能性を提示したいと考えている。 これに当たり、構成を次のように設定した。 (1)1990?1996年=生活協同組合における電気トラック (2)1996?2006=生協におけるLPガストラック (3)2002~2006年=生協及び企業のDMEトラック (4)2006~2013年=企業のDMEトラック (5)現在の課と未来予測 ◎ ◎ ◎ これらの研究開発と普及への取り組みについて、成功体験と失敗体験を織り交ぜながら、時系列で振り返る。 また、最近は燃料電池自動車が大きな話題を集めている。 水しか排出しない低公害性をはじめ、静粛性、水素の充てん時間の短さ、1回の充てんで走行できる距離の長さ (600~800キロ) が、にわかに注目されている。 私が所有する土地(さいたま市)に隣接する東京ガスの敷地に現在、燃料電池自動車の水素ステーションを建設する計画が持ち上がっている。 この件で、近隣の住民や行政、東京ガスと議論する機会があったことから、水素燃料と燃料電池自動車に関しても後に触れる。 その上で、現実的かつ今日的な燃料を提言できれば幸いである。 電気トラックの研究開発 (1)1990~1996年=生協における電気トラックの研究開発と普及の取り組み 46歳だった1991年、それまでの仕事と全く異なる電気トラックの研究開発・普及を目的とする組織に転身した。 電気トラック、LPガストラック、DMEトラックというように、その後の20年余りにわたって低公害自動車の普及に携わる出発点となったのだが、当時はもちろん知る由もない。 大学は北海道大学農学部畜産学科で、卒論テーマは「低温歯の早期発見簡便法の検証」。 在学中に生協活動をしていたこともあり、卒業後は日本生活協同組合連合会の北海道支所に勤め、5年後に東京事業本部に転勤となった。商品企画開発などのセクションを経て、経営指導担当を歴任。 45歳で中央地連の事務局次長(組織課長)に就いた。 環境問題に関心が高まり始めていた時期で、神奈川の生協を中心に電気トラックの研究開発をしているという話を聞いた。 ぜひとも手伝って欲しいーという依頼に応じ、その翌年にコープかながわに移籍すると同時に、傘下のコープ電動車両開発株式会社に席を置くことになった。 コープ電動車両開発は全国の有志生協が出資して創設され、いすゞ自動車と電気トラックの共同開発を目指していた。 1990年代の初頭は、環境問題や排出ガス公害への対応で、スズキやダイハツ工業、トヨタ自動車が電気自動車を試作し、販売を開始していた時期に当たる。 生協の取り組みもマスコミで大々的に取り上げられたものである。 しかし、当時のいすゞ自動車は電気自動車の技術基盤をほとんど失っており、第1号の試作車は、2、3トン積載のエルフを米国に輸送し、シカゴ市のベンチャー企業(ソレック) に改造を委託した。電池は密閉式のドイツ製鉛酸蓄電池を採用し、コントローラーはトランジスター500個から成る手作り。 モーターは米ゼネラル・エレクトリックの直流分巻モーターと、本体の車両以外は全て外国製品だった。 価格は1両4500万円にも上り、いすゞ自動車と費用を折半して作った。 ホテルでの華々しいお披露目も行うなど、電気トラックに懸ける当時の並々ならぬ意気込みを理解していただけるだろう。 1991年には日本電池(現GSユアサ)が開発した鉛酸電池(非密閉式)を使い、試作車第2号を製作した。 いすゞ自動車は、富士通と電子部品の研究開発会社を創設し、コントローラーの研究開発をスタート。 1992年から1993年くらいにかけて手掛けた第2次試作車には、国産のコントローラーを搭載した。 特注のニッケルカドミウム電池も使用し、走行実証テストを実施したものの、残念ながら、ニッケルカドミウム電池は実用的ではなかった。(充電量は2倍程度になったが、走行した後、ニッカド電池が発熱し、冷却するために翌日は走行できない言う事態が判明した。) 結局、ドイツ製の密閉式鉛酸蓄電池に舞い戻った。 その後、いすゞ自動車がコントローラーの改善などを図り、プロジェクトは第3次試作車まで突き進んでいく。 ◎ ◎ ◎ 1993年に、二つの生協(東都生協とジョイコープ)が東京都から助成金を得て、1両3300万円(補助金50%)で試作車を購入。 1999年には、コープとうきょうが3200万円(同)で導入した。当初は、24の電気トラックを2000年に2000輌普及させる計画(コープEV2000)だったが、電気トラックの実用化に向けたプロジェクトは中止せざるを得なくなった。 理由は、「ディーゼルトラックとの価格差が11倍と埋めがたいレベルだった」の一言に尽きる。 走行距離1キロ当たりの燃料費も、ガソリントラックが電気トラックの55%、ディーゼルトラックに至っては27%と圧倒的な開きがあった。 要は、導入・運用コストの問題である。 現在も、電気トラックの実用化は道のりが遠く険しい―と言わざるを得ないが軽油トラックを電気トラックに切り替える状況にはまだまだ時間が必要―という結論に達し、今すぐに転換が可能なLPガストラックの導入に方針を変更した。 LPガスに方針を変更 (2)1993~2006年=生におけるLPガストラックの研究開発と普の取り組み 1992年に欧州(スイス、フランス、ドイツ)の電気自動車の普及事情を視察したのを機に、生協の車両担当者による全国車両担当者低公害化検討会議を立ち上げ、電気トラックの普及に向けて車両の使用実態調査を行った。 判明したのが、全国の生協で1万5千両程度の小型トラックが使用され、平均積量が1.25㌧、走行距離は1日300㌔以下―ということである。 この結果を基に、電気トラックの目標性能を大幅に低滅可能と判断。 トヨタ自動車にタウンエースバン電気自動車の小型トラック版の開発について相談したところ、「トラックは運んで幾らの世界。乗用車とは違う」と言われ、逆提案されたのがLPガストラックだった。 トヨタ自動車は当時、東京都と積載2㌧クラス (2700cc) のLPガス清掃自動車(パッカー)を開発しているさなかだった。 各生協の担当者と検討した結果、1・5㌧檀載(2000C)で、オートマチック仕様の小型ガストラックを開発することで一致。 トヨタ自動車と共同開発した試作車が3年11月に完成し、1994年6月から購入を開始した。 コープ電動車両開発の定款を「電気および低公害車」に変え、社名もコープ低公害車開発株式会社に改称した。 1998年にコープ低公害車開発株式会社の今後のあり方について検討を行いました。 1989年に「コープ電動車両開発株式会社」として発足、しかし、電気トラックの研究開発を進めたが、現実問題として実際に使用している生協の配達トラックとして、ディーゼルやガソリンで稼働している状況から電気トラックへの移行は大変難しいとの認識のから、より現実的に生協で働く配達する職員やパートさん、配達先の組合員さんの健康環境を改善を果たすことが何よりも優先するという立場から、神奈川県環境研究センターと共同で行ったディーゼル・ガソリン・LPガスの3種の排ガス性状や燃料効率などから一番良いと判断されたLPガスを燃料とするトラックの研究、性能向上へシフトし、定款を電気および低公害な車両研究開発とし、会社名称を「コープ低公害車開発株式会社」と変更した。 問題は、運用する資金が、当初、コープかながわとコープしずおかが用意したものだったが、その資金が枯渇する状況となり、その資金調達をどうするべきかということから、継続するのか、会社を閉鎖するのか、継続する際は、参加している生協の資金負担はどうするのかなどを議論し、コープ低公害車の果たした成果と今後の課題などについて検討委員会を設置して議論を行いました。 結果的には、2000年に1・5、積載のLPガストラック2850台を全国の生協に導入(2000台超の達成は1999年6月)した。 コープ低公害車開発は2006年の会社閉鎖までに、累計(廃車も含めて)で7000台以上、生協の現有車両数としては配送車両の35%(5500台)をLPガストラックに転換。 大きな成果を収めることができたと自負している。 LPガストラックの導入は、順調に推移したとはいえ、現からの不満や要望も聞こえてくるようになった。 その一つは、車種の不足である。 山岳地帯や積雪地帯を走行できる4WD車、あるいは2トンクラスや大型。更には、現行車両のパワー向上、スタンド不足への対応― そこで、エンジン性能の向上(燃料噴射システムの導入研究)や4WD車の開発、大型車(トラック、バス)の研究開発と試行に加え、LPガススタンドの設置も推進した。ただ、大型化は具体的な成果に結びつけられなかった。 さて、生協時代の後輩から盛んに言われるのが、「LPガススタンドの減少と生協におけるLPガストラックの減少している」―ということである。一時は2千カ所程度をLPガススタンドも減っている。それでも圧縮天然ガス(CNG)スタンドより多いが、残念ながら、LPガス自動車が大量普及する芽は消滅している。起死回生の妙案が必要だと思う。LPガス自動車は元々、タクシー会社が独自に開発普及させてきた。それだけに、LPガススタンドの設事業者は、LPガスが一戦車に大量普及して燃料が不足したり税金が高くなったりするなど、タクシー会社に迷惑を掛けてはいけないと判断。一般車への普及に扉を閉ざしてしまった(利用は可能)。LPガスの国内供給量のピークは1992年度の1981万㌧。それが2012年度には1673万㌧と300万㌧も減っている。LPガス自動車の台数も減少の一途をたどり、最大時の30万台超が、22年度は2万9647台と融滅。 LPガスの供給減少分は、LPガス自動車6万台分の燃料に相当する。これはあくまでタクシーを基準にした数字なので、一般車をベースにすると20万~300万台は十分計算になる。一概には言えないが、LPガス自動車の普及をLPガス業界が必死に推進していたら、大きなマーケットが形成されていたのは間違いない。 DME実用化をめざす(3)2002~2006年=生協及び企業のDMEトラックの研究開発と普及の取り組み 次のステージでは、大型車両を低公害化する取り組みの一環として、GTL軽油(天然ガスなどのガス体を液状物翻に合成する)の検討に入った。GTL軽油は普通の軽油よりも複雑な分子形態が少なく、燃焼性に優れる上にセタン価 (着火性)が高い。燃焼の効率が良く黒煙の発生も少ないため、軽油をGTL軽油に代替することは低公害化に直結する。GTL軽油の環境性に着目した4者(昭和シェル石油、シェルインターナショナルガス、三菱商事、首都圏コーブ事業連合)は、コープ低公害車開発と産業技術総合研究所の支援により、日本初の実走行試験を7カ月にわたって実施した。しかしながら、石油メジャーなどが製品化を試みたものの、高コストがネックとなり、今も実用化には至っていない。 GTI軽油と並行して実用化を目指したのがDMEである。コーブ低公害車開発が全体を統括し、DME自動車実用化研究開発グルーブを結成した。産業技術総合研究所、三菱ガス化学、日本鋼管(現JFE)、伊藤忠商事、岩谷産業、伊藤忠エネクスなどが参加し、車両開発、燃料供給、市場調査などで連携。更に、いすゞ自動車、ボッシュジャパン、中央機機などが協力企業として加わった。 そして、石油公団との共同研究を目的に中大型DME自動車の実用化研究開発プロジェクトを発足させ、2005年の新長期規制を視野に入れた試作串の完成も計画に策定。DME中型トラック、DME給油システム搭鮫ローリー、DME簡易給油スタンド(つくば市、横浜市、新潟市、川崎市)、クレーン付きDMEトラックなどを完成させ、実証テストも行った。 新潟運輸も長期の実証運転を行ったところ、運転者の評判は上々であったという。 問題はコストである。そこで、DME自動車は実用性を重視して、使用過程車を改造することにした。 改造費用は量産段階で50万円以下に設定したが、残念ながら、ハードルは高かった。 そして、根本的には、DME燃料の生産体制が国内で整っていない―という壁が立ち塞がったのである。 |
コープ低公害車開発、LPガストラック導入2000台達成
| コープ低公害車開発、LPガストラック導入2000台達成 1999/06/25 化学工業日報 全国の生協に低公害車のLPガストラック(1・5トン前後クラス、共同購入用配送車両)を導入しているコープ低公害車開発(本社・横浜市、馬場昭夫社長)は、6月17日時点で導入台数が2000台に達したと発表した。 第1号を1994年7月にえひめコープに導入してから約5年で達成したことになる。対象台数はおよそ1万4千台あるが、これで転換率は14・3%になったとしている。 |
| 新たなトラック燃料の可能性 上・(下) 燃料電池車、大型に適す燃料とは? 未来舎副理事長 若狭 良治 物流ニッポン 2014年10月23日(木) (4)2006~2013年 企業のDME (ジメチルエーテル) トラックの研究開発と普及の取り組み 生活協同組合の車両の35%を液化石油(LP)ガストラックに転換したことをもち、コープ公公害車開発は独自の研究開発活動を中止することになった。 最大の理由は、私が定年退職の62歳を迎えたことである。 生協内においても特殊な職場で、かつ後継者の育成が困難なこともあり、清算人として会社を整理した。 先述したDME自動車実用化研究開発グループのメンバーから、新しいDMEグループ(DME自動車普及推進委員会=現日本DME協会)の事務局を引き受けて欲しい―との要請があり、今後はDMEの普及に的を絞ることになった。 天然ガスなどを原料に合成するDMEは、二酸化炭素(CO2)の排出削減をはじめ、粒子状物質(PM)、硫黄酸化物(SOx)、窒素酸化物(NOx) といった大気汚染物を大幅に削減する効果が期待できることから、軽油代替燃料として大きく注目された。 DMEは、燃焼の際に黒煙を出さないという特性を持つ。 セタン価(着火性)が軽油よりも高い上、常温では気体なので低温流動性が高く高地での運転が可能なディーゼル燃料である。 しかも、DPF(デイーゼル排気微粒子除去装置)の装着が必要ない。 バイオマスや廃プラスチック、天然ガス 石炭ガスなど、複数原料で精製が可能なため、マルチソース・クリーン燃料とも表される。 燃料とエンジンの関係を示すと【図1】のようになる。 【図1】 ![]() 最前列 右から2人目から 大坪(豊田通商)後藤(産総研)Dr. Cho(韓国ガス公社)西村(いすず中研)若狹(DME委員会) ![]() DME利用、北米で進む 当時の活動の中心は、 DME充填スタンド設置基準の規定整備や、 DME自動車構造取扱規準の整備。 先に触れた新潟運輪の実証走行もサポートした。 その他の主なを挙げると、2007年12月に中国の上海で日中DME自動車普及推進シンポジウムを共催したほか、2010年5月にはバイオDME燃料による日本初のトラック走行テスト発表会を企画した。 2012年3月には、「DMEスタンド及びDME自動車燃料装置用容器の技術案(例示規準関係)」を作成。 更に同年は、4月に「DME自動車技術基準案」を国土交通省に、5月には「DMEスタンド及びDME自動車燃料装置用容器の技術基準案(例示規準関係)」を経済産業省に、それぞれ提出した。 そもそもDMEはGTL軽油(天然ガスなどのガス体を液状物質に合成する)よりも低性と有用性のいずれも高い―との判断に基づき、LPガス自動車の大型化を目指した時に、DMEトラックの研究開発や普及推進に着手した。 しかし、DMEの国内生産は化学工業製品が主な用途で、燃料の市場規模は非常に限定される。 一方、世界に目を転じると、状況は大きく異なる。 北米でシェールガスが発見されたからである。 シェールガスの商業化を機に、特に北米でDMEの利用が進もうとしている。 スウェーデンのボルボが2013年6月、DMEトラックを2015年に北米で販売する―と発表した。 オーベル燃料も、2015年からDMEの生産を開始することを明らかにしている。 日本も比較的安価に大量輸入できれば、DME自動車の普及が大きく前進する可能性はある。 いずれにせよ、我が国は、海外の動向を先進技術で支援し、日本への燃料輸入を目指す―というのが現実的なスタンスである。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 左側:DMEクレーン車(8トン積載) 右側:DMEトラック(8トン積載の中型トラック) 左側:神奈川県に設置したDME充填スタンド 右側:軽油・DME 給油スタンド 左側:DME小型バス 中央:4トントラック(4トン積載) 右側:DMEタンクローリー車 ![]() 【図2】 ナノ粒子の被害深刻 (5)現在の課題と未来予測 政府のエネルギー政策を一概に批判するつもりはないが、現時点よりも1年はど前に集約された過去5年間の実績をベースに、実質的には6年後を予測するという手法がよく取られる。 「2年一昔」は違い過去の形容で、現在は1年で様変る時代である。 未来予測は、過去1、2年程度の数字を基に、直近数カ月の動きを加味しないと、年後すら予測はできない。 エネルギーは、持つ者と持たざる者の差が非常に大きい。日本の周辺海域に存在すると言われる大量のメる声がある。 オホーツク神、十勝・日高沖、四国神などに分布し、東京ドーム600万杯千億立方ンガスが日本近海に眠っているとは国内の天然ガス需要の100年分以上に相当するそうだ。 これを低コストで採取できる技術を開発すれば、エネルギー輸出大国も夢ではないかも知れない。 しかしながら、現実は「レバタラ」の域を出ない。 それでも、大きな期待を抱きたくなるほど、日本は使いやすいエネルギーが不足している。 ほぼ100%を輸に頼る石炭、原油、 天然ガス(LNG)から、電力や石油製品(軽油やガソリンなどの燃料も含む)が生産される。私個人は軽油代替燃料として、また大型トラックの燃料として、電気、LPガス、DMEなどを追究してきたが、国では圧縮天然ガス (CNG)バイオディーゼル(主に、てんぷら廃油のメタノールエステル)、純粋メタノール、ガソリン混合メタノールなどを推進してきた。 しかし、メタノールは今や影も形も無い。 てんぷら廃油は低温での流動性が悪く、更に、噴射バルブの目詰まりなどの問題もあり、利用が進んでいない。 南方諸国のパーム油の利用を目指す動きもあったが、事業化のメドが付かずに立ち消えた。 結局は、軽油を利用するディーゼルエンジンの改良を積み重ね、排ガス規制を方が、依然として我が国における車両低公害化の主流である。 ◎ ◎ ◎ 微小粒子状物質「PM2・5」問題がマスコミを敷かせたのは記憶に新しい。 指摘したいのは、PM2.5 問題を正しく伝える報道が少ないことだ。 大気汚染の元凶であるPMは、大気中に漂う浮遊粒子状物質で、大きさは10ミクロン以下のものである。 日本人も長く悩まされてきた、ぜん息や気管支炎などの原因となる。PM2・5は、もっと小さな微粒子で、肺の深奥に入り込み、多くの肺疾患を生む。 更に深刻なのは、より微細な物質(ナノ粒子)である。 図2は、環境省の「ディーゼル排気の特性 2002年3月5日 ディーゼル排気粒子リスク評価検討会」に掲載されている大気中の浮遊粒子状物質の粒径(大きさ) 分布図である。 出典は、アメリカのDr.Kittelson(1998)。 この図では、PM10やM2.5が右の方に位置していることに注目したい。 右に行くほど粒径は大きく、左へ行くに従い測定不能な程まで細かくなる。 自然微粒子には砂塵(さじん)などがあるが、そのほとんどはPM3以上である。 肺呼吸する哺類などの動物(人間を含む)は、FM3以上の物質が肺に入るのを阻止する防御機能を備える。 それでも大量に浸入した場合は、珪肺(けいはい)などの病気を発症する。 つまり、自然界にはPM3以下の物は少ない。 ところが、自動車メーカーなどは、排出ガス規制が厳しくなるにつれ、燃料の粒子化と高圧噴射で発生するPMの粒子を小さく視認されにくくすることで規制をクリアしてきた。 問題は、このPM2.5よりも小さなナノ粒子と呼ばれる100ナノミリ前後の物質の健康被害が深刻なことである。 妊娠初期の妊婦が肺から取り込む排気微粒子が、胎児の前頭葉に取り込まれ、脳細胞を破壊する――という研究結果もある。 DMEは、超微粒子が少ないのが利点なのだが、インフラの整備は、はかどっていない。 ならば、これからは水素燃料だと短絡視するのではなく、再び増加傾向にあるディーゼル車や噴式ガソリンエンジン軍への対策を講じるのが、まず先決だろう。 インフラの有無カギ 新燃料が普及するためのカギは、供給サイドから見ると採算ベースに乗るか否か―である。 一方、ユーザーはコストや利便性でしなければ見向きはしない。 既存燃料のガソリンと軽油は、スタンドが全国に存在し、たとえ価しても、平時ならばトラックを動かせる。 インフラの有無が燃料消費とイコールなのは繰り返すまでもない。 東日本大災の際、全国のスタンドで軽油やガソリンが不足し、日常生活に影響が及んだことがあった。 燃料を一斉に満タンにしたのが不足の原因だが、よくよく調べてみると、日常的にはほとんど動かしていない自家用車などもスタンドに殺到したために招いた事態だった。 このケースは、運送の緊急車両には証明書を発行し、災害時は一般の給油を制限すれば解決わけである。 ◎ ◎ ◎ さいたま市と水素ステーションの設置問題で懇談した際、先方の担当者は東日本大震災で、ガソリンや軽油が不足したことを覚えているでしょう、さいたま市のごみ収集車などはCNGが多くてかった」と発言した。 LPガス自動車を導入しているタクシー業界も同様だったという。 だから、水素を燃料とする燃料電池自動車を導入することにより、「災害時における混乱を回避できる。 従って、水素ステーションの設置が必要になる」と説明された。 果たして、この論法は正しいのだろうか。 先の震災でガソリンや軽油が不足したことを例示するならば、さいたま市が10日間ほどの軽油を備蓄しておくことで、問題の大半は解決する。 ちなみにCNGスタンドは全国に260ヵ所程度。 単純に車両台数をスタンド数で割ると、1ヵ所平均の利用は167台にとどまる。 ガソリン・軽油のスタンドは1996年に5万9615ヵ所あったのが、2011年には3万7743ヵ所と大幅に減少している。 それでも、1ヵ所当たりの利用台数は2040台である。 自動車の普及にとって燃料インフラがいかに重要か―が見て取れる。 水素ステーション 設置が最優先 最近における注目の話題は、「トヨタ自動点が燃料電池自動車を年内に販売」のニュースだろう。 世の中では、2015年が燃料電池自動車の普及元年-という位置づけのようである。 本紙の読者にとっては、販売価格が700万円で、200万~300万円の補助金が付くのであれば、トヨタ自動車のクラウンより安いということになり、個人あるいは会社所有の乗用にどうか、ということではなかろうか。 「物流の業務とは無関係と受け止めているかも知れない。 昔からある神話論争に「ニワトリが先か、卵が先か」があるが、「低公害車の普及は、スタンドが先か、白動が先か」も一貫して存在する議論の種である。 ニワトリと卵の話は脇に置くとして、自動車が一般に広く普及するには、インフラの先行投が重要な のは当然である。 燃料電池自動車もしかりで、水素ステーションの設置が最優先なのは明らかである。 ただし、超高圧 (800 気圧以上)を扱う設備を構え、天然ガス(都市ガス)を高熱(セ氏300度以上)で改質する。 炭酸ガスを一部地域に大量に排出するほか、排熱も 200度以上に達する。 騒音や振動、 爆発時の対策など様々な課題もある。 推進者である行政が、どれだけ真摯(しんし)に地域住民と話し合えるか―に普及の行方が懸かっている。 では、燃料電動車は大型自動車に適すか否か。結論から言うと、適している。 水素燃料を燃料電池で充填し、バッテリーに充電して作動させる。 これは電気自動車(バッテリーで電気自動車)と基本的に同じである。 燃料電池は水素と空気中の酸素があれば、白金を触媒に水を合成する際に電気を発生させる。 発進時や加速時、高速走行時は、燃料電池だけではパワーが不足するため、蓄電池を搭載して電力を補う仕組みを採用している。 従って、電気自動車に燃料電池と水素タンクを付加したのが燃料電池自動である。 両者の大きな違いは、電気自動車が充電に時間を要す欠点があるのに対し、燃料電池自動車は水素の量を多くすることで走行距離が長くなる点にある。 ただし、蓄電池には充電しておく必要がある。 いずれにしても部品が多くなるので、大型車両ほど適している。 また、水素燃料は化石燃料と同等の価格体系がされることが重要で、今後の推移(本当に実現するのか)を注視する必要があるだろう。 |
| 加賀美 太記(かがみ たいき)(京都大学大学院経済学研究科博士後期課程、「協う」編集委員)のレポート「協う」第122号から引用。 http://www.kurashitokyodo.jp/publication/pdf/kanau122.pdf LPGトラックの開発・普及は一見すると順調に進んだかのように見える。 しかし、普及には様々な困難が伴った。 たとえば、荷物を積んで坂道を走る配送トラックに必要なパワーが本当に得られるのかといった点が、生協の車両担当者の不安の種となっていた。 そのため、担当者を集めた生協車両低害化実務担当者会議を開催した。 若狭氏によれば、この担当者会議の果たした役割は大きく、全国各地の独自な課題を車両開発に反映させることができただけでなく、担当者が車両開発に関わることを通じてLPGトラックの意義を学び取り、積極的に各地の生協へ意義を伝えていってくれたという。 それだけではなく、実際に配送ルートを走らせるなどのテスト・デモ走行を全国各地でおこなった。 1993年11月に完成したLPGトラックの試験車のテスト走行だけでなく、開発当初のトヨタから、三菱、マツダ、いすゞとメーカーを増やしながら、併せて全国キャラバンでLPGトラックのデモ走行をおこなうなど、低公害車への理解を深めてもらう取り組みを進めたのである。 組合員への普及を目的とした取り組み 職員だけではなく、 組合員の理解を得ることも同社では忘れていなかった。 会員制組織でもある生協は、学習する組合員という強みを持つものの、反面一つ一つの活動について組合員の理解を得ていくことが不可欠である。 そのため、若狭氏らは全国各地を飛び回って低公害車についての学習会を組織するなど、組合員を対象とした低公害車の学習活動、セミナーの開催に取り組んだという。 生協が低公害車導入の検討を始めた1990年代初頭は、温暖化などの環境問題についての社会的な関心はそれ程高かったわけではない。 当時の問題は大気汚染などの公害であり、それも1980年代の各地の公害闘争の終結とともに関心が廃れつつある状況であった。 そのため、 最初の反応は決して良いものではなかった。 それでも、安全・安心を掲げる生協が排ガスをまき散らしながら事業を進めている現状への憤りや、ドライバーに代表される職場や地域の健康問題を何とかしたい、という思いを伝えるべく活動を続けていった。 その結果、徐々に組合員の理解を得ることができたという。 そのような理解ある組合員の声がLPGトラックの普及を後押ししてくれたのである。 社会的事業者としての生協の役割 コープ低公害車開発株式会社と、それを構成する生協の担当者や組合員を中心とした積極的な取り組みによって、生協は配送トラックの低公害化という社会的取り組みにおいて一歩先を行くこととなった。 http://www.j-fra.or.jp/productsindex2150.html |
| 若狹良治 プロフィール 1944年8月29日 中国ハルビン生まれ。 1953年4月15日 長春民主日本人小学校(民日小)2年修了時に日本へ帰国。 1953.4.15 第2次引揚船「興安丸」で日本(舞鶴)へ引き揚げ。 日本での小学校は、 札幌市立上白石(3年1学期)、京都市立吉祥院(3年2学期~4年1学期)、 美幌町立美幌(4年2学期~5年2学期)、札幌市立豊水(5年2学期~卒業)。 札幌市立中島中学校。 北海道立札幌南高等学校 1964 年 4月 北海道大学入学(理類) 1965 年 9月 北海道大学 農学部畜産学科 へ移行 この間、の農学部生協議会 議長として農学部学生自治会の再建 農学部人討論大集会(教授会・教職員組合・大学院生会・学生自治会)の主席議長など 1969 年 3月31日 北海道大学農学部畜産学科卒業 1969 年 3月21日 北海道大学農学部を卒業後、日本生活協同組合連合会 に勤務 1969 年 3月 日本生協連・北海道支所商品管理係、受発注係に勤務。 1970 年 9月 日本生協連・北海道支所家庭用品係、商品管理、受発注担当(主任) 1971 年 4月 室蘭中央生協へ出向 高砂支店長。 1971 年10月 北海道支所商品企画担当(瓶缶、粉製品、塩干、生鮮担当)。 1976 年 7月 日本生協連・事業部商品企画担当(塩干、生鮮、水産)。 1980 年 4月 生鮮課長。 1983年 4月 総務部人事教育担当課長 → 人事教育部人事教育課長。 1985年8月 日本生協連・編集協力 「おいしい魚をさがす」出版」 1986年 4月 指導部指導担当(職域生協担当課長→担当次長)経営・職員教育・食堂・店舗・冠婚葬祭。 日本生協連・職域生協協議会 創設に関与、事務局担当 1990年 7月 日本生協連・中央地連事務局次長(組織課長) 1991年 7月 コープかながわへ移籍 1991 年7月、コープ電動車両開発(株)業務部長。 → コープ低公害車開発(株)に組織変更 1996年11月 神奈川県「かながわ地球環境賞」を受賞 1998年 6月 神奈川県の推薦で環境庁「地域環境保全功労賞」を受賞 1999 年6月、コープ低公害車開発(株) 専務取締役。 この間、電気トラック・LPガストラック・DMEトラックなどの低公害車開発普及に従事。 2006 年3 月20 日、コープ低公害車開発株式会社を閉鎖、役員退任 2006 年3 月21 日 株式会社北海道自然エネルギー研究センター(NERC) 取締役/東京支所・開所 2006 年3月15日 任意団体:DME自動車普及推進委員会 設立 事務局長就任 2010 年4月1日 一般社団法人DME自動車普及推進委員会に組織変更 理事・事務局長 株式会社NERC退任。 一般社団法人DME自動車&バイオDME普及推進委員会 退任 2007年7月~2014年3月 任意団体 超多収穫米普及連絡会 発起人、運営委員 2014年4月~2015年6月 一般社団法人日本飼料用米振興協会 設立 監事 2014年5月~ 特定非営利活動法人未来舎 副理事長 現職 2015年3月25日~ 一般社団法人日本飼料用米振興協会 理事・事務局長 現職 地元の活動 2008年3月 マンションに転居 マンショントラブル発生(総戸数94戸のうち34戸が販売不能・管理費未納で問題発生) 2008年7月12日 マンション管理組合設立総会 で問題提起(議長を務め、方針変更を認めさせた) 修正意見 2010年4月~2012年3月(第3~4期)居住マンション管理組合・理事長 2016年4月~2018年3月(第9~12期)居住マンション管理組合・理事長 2018年4月~2020年3月(第11~12期)管理組合・理事長 2020年4月~2022年3月 管理組合大規模修繕専門委員会委員長 2022年4月~2024年3月(第15~16期)メロディハイム武蔵浦和プライムフィールド管理組合 理事長 現在、地元の仲間と「さいたま市民リモートカフェ」(ZOOM)を主宰 ZOOMは現在休止中 一般社団法人 日本飼料用米振興協会 理事・事務局長 |
2007年1月~2008年7月 日刊自動車新聞 車笛などの掲載記事 PDF



参考資料
JDAについて 一般社団法人 日本DME協会 (japan-dme.or.jp)
| 参考資料 JDAについて | 一般社団法人 日本DME協会 (japan-dme.or.jp) DME自動車推進委員会(任意団体)の発足から、 一般社団法人日本DME協会の発足までの歴史 ◆2006年3月 DME自動車の導入・普及を目指す任意団体として、民間17社参加による「DME自動車普及推進委員会」を設立。自動車部会、燃料部会、インフラ部会の活動を開始。 ◆2010年4月 組織変更を行い「一般社団法人DME自動車普及推進委員会」を設立。「一般社団法人日本DME協会」の前身となる。 ◆2000年9月 日本DMEフォーラムの設立 ◆2012年12月 「日本DMEフォーラム」と「一般社団法人DME自動車・バイオDME普及推進委員会」との統合を理事会・総会にて決議 ◆2013年4月 「一般社団法人DME自動車・バイオDME普及推進委員会」と「日本DMEフォーラム」が統合して、「一般社団法人日本DME協会」として発足。 一般社団法人DME自動車・バイオDME普及推進委員会の沿革 2006年3月 DME自動車の導入・普及を目指す任意団体として、民間17社参加による「DME自動車普及推進委員会」を設立。 自動車部会、燃料部会、インフラ部会の活動を開始。 2006年6月 「エコカーワールド2006」にDME自動車を出展。(会場:横浜赤レンガパーク) 2006年11月 「エコカー・フェアー埼玉2006」にDME自動車を出展。 2007年1月 中国調査団を派遣。中国におけるDME動向を調査。 2007年6月 「エコカーワールド2007」にDME自動車を出展。(会場:横浜赤レンガパーク) 2007年10月 神奈川県とインフラ部会が連携し「DMEインフラ等研究会」発足。 (活動期間 2007年10月〜2008年5月) 2007年11月 第4回アジアDME会議にDME自動車を出展。(会場:北九州市) 2007年12月 「日中DME自動車普及推進シンポジウム」を(財)運輸政策研究機構国際問題研究所、 中国アルコール・エーテルクリーン燃料・自動車専門委員会、上海交通大学と共同開催。 日本のDMEトラック、バスを出展。(会場:上海交通大学) 2007年12月 〜2008年3月 燃料性状によるDME自動車排出ガスへの影響調査を(独)産業技術総合研究所と共同研究 2008年4月 神奈川県とインフラ部会が連携し「DMEインフラ等研究会報告」発行 2008年5、6月 「エコカーワールド2008in神戸、in横浜」にDME自動車を出展。 2008年6月 「DMEセミナー2008」2007年度成果報告会を開催。(会場:川崎産業振興会館) 2008年7月 インフラ部会と神奈川県が連携し、経済産業省地域イノベーション創出研究開発事業「自動車用DME充填装置の研究開発とDMEスタンドの安全性研究」の委託を受け(独)産業技術研究所、東京大学、東京農工大学と共同研究を開始。(研究期間2008年7月〜2010年3月) 2009年2月 「川崎国際環境展2009」にDME自動車を出展。 2009年4月 「欧州バイオDME調査団」が来日し第1回技術交流会を開催。 2009年9月 第6回アジアDME会議において国際DME協会(IDA)の The DME Clean Fuel Achievement Awardを受賞(会場:韓国ソウル) 2009年11月 国土交通省「DME自動車実証運行モデル事業」へのサポートを開始 (期間2009年11月〜2011年3月) 2010年4月 組織変更を行い「一般社団法人DME自動車普及推進委員会」を設立。 「一般社団法人日本DME協会」の前身となる。 2010年5月 「バイオDMEセミナー2010」を開催。(会場:東京大学山上会館) 2010年5月 「バイオDME燃料による日本初のトラック走行テスト発表会」開催。 (会場:横浜液化ガスターミナル(株)) 2010年8月 会員企業有志と滋賀県長浜商工会議所が連携し「長浜バイオDME研究会」発足。 2010年9月 第4回国際DME会議と並行して欧州バイオDMEプロジェクトとの第2回技術交流会を開催 (会場:スウェーデン ピテオ市) 2010年10月 第1次「DME自動車用燃料充填設備等の高圧ガスに関する技術基準案検討委員会」 (委員長 田村昌三東京大学名誉教授)を設置。 2010年3月に「DMEスタンド及びDME自動車燃料装置用容器の技術基準案」を作成。 2011年2月 基準認証イノベーション技術研究組合に参画。 同組合の下で平成22年度〜平成25年度 経済産業省アジア基準認証推進事業を実施。 2011年4月 「DMEスタンド及びDME自動車燃料装置用容器技術基準案」を経済産業省に提出。 2011年4月 長浜バイオDME研究会報告「長浜市のバイオマス資源を活用する地産地消型・バイオDME産業の創出に関する調査研究報告書」を作成し長浜市に提出。 2011年7月 名称を「一般社団法人DME自動車・バイオDME普及推進委員会」に変更。 2011年7月 「地産地消型長浜バイオDMEプロジェクト」研究活動を燃料部会の正式活動として承認 2011年7月 経済産業省アジア基準認証推進事業の一環として第2次「DME自動車用燃料充填設備等の高圧ガスに関する技術基準案検討委員会」(委員長 田村昌三東京大学名誉教授)を設置。 2012年3月DMEスタンド及びDME自動車燃料装置用容器の技術基準案(例示基準関係)を作成。 2011年10月 経済産業省アジア基準認証推進事業の一環として「DME自動車製造に関する構造取扱基準策定検討委員会」(委員長 飯田訓正慶応義塾大学教授)を設置。2012年3月DME自動車技術基準案を作成。 2011年11月 第7回アジアDME会議にDME自動車出展。(会場:新潟市) 同会議関連行事として「DME急速充填システムデモンストレーションと充填システム・充填インターフェースディスカッションミーティング」を開催。(会場:横浜市) 2011年11月 欧州バイオDMEプロジェクトとの第3回技術交流会を開催。 (会場:新潟市) 2012年4月 「DME自動車技術基準案」を国土交通省に提出。 2012年5月 「DMEスタンド及びDME自動車燃料装置用容器の技術基準案(例示基準関係)」を経済産業省に提出。 2012年10月 「びわ湖環境ビジネスメッセ2012」に長浜バイオDME研究会としてDME自動車を出展。 (会場:長浜市) 2012年12月 臨時総会において、日本DMEフォーラムと本会が掲げる目的を共有し、 目的達成のための事業を円滑に進めると共に、相互協働により、より発展的、 戦略的な活動を行うことを目的としての統合することを決議。 日本DMEフォーラムの沿革 2000年9月 日本DMEフォーラムの設立 規格分科会、製造分科会、利用技術分科会の3分科会で活動 2000年9月 第1回国際DMEワークショップ主催(会場:東京大学山上会館) 2001年1月 IDA(International DME Association)発足に伴い、相互に会員となる (2006年 IDAとの相互の会員関係を解消し、相互に独立した組織として、戦略的パートナーの協定締結) 2002年3月 「DME製造標準価格」刊行(製造分科会DME経済性検討WG報告書) 2003年3月 「DMEの導入期における潜在市場規模推計」刊行(利用技術分科会報告書) 2004年3月 「DMEの環境評価」刊行 (製造分科会利用技術分科会共同DME環境評価WG報告書) 2004年12月 第1回アジアDME会議主催(会場:東京大学山上会館) 2005年3月 「DME利用技術開発状況と導入普及シナリオ」刊行 (利用技術分科会導入普及WG報告書) 2005年11月 「燃料DME規格標準仕様書TSK0011」日本工業標準調査会より公表 (規格分科会で燃料用DMEの規格JIS原案検討、TS案作成) 2006年4月 「DMEハンドブック(和文)」発刊 2007年10月 「DMEハンドブック(英文)」発刊 2007年11月 第4回アジアDME会議主催(会場:北九州国際会議場) 2008年12月 DME公開シンポジウム2008主催(会場:東京大学山上会館) 2009年9月 DME公開シンポジウム2009主催(会場:東京大学山上会館) 2011年3月 DME公開シンポジウム2011主催(会場:東京大学山上会館) 2011年4月 「DMEハンドブック追補(和文)」発刊 2011年10月 「DMEハンドブック追補(英文)」発刊 2011年11月 第7回アジアDME会議主催(会場:新潟朱鷺メッセ) 2012年4月 企画委員会を設置し、今後の活動・運営の見直しと方向性を協議 2012年12月 一般社団法人DME自動車・バイオDME普及推進委員会との統合を理事会・総会にて決議 一般社団法人日本DME協会の沿革 2013年4月 「一般社団法人DME自動車・バイオDME普及推進委員会」と「日本DMEフォーラム」が統合して、「一般社団法人日本DME協会」として発足。 |








